すべてが、それでいい

 

散々悟りについて語っていながら、どういったことだろうと感じる方も中にはいらっしゃるかも知れない。

 

私は悟りを、良いとも悪いとも言っていない。悟った方が良いとも悪いとも言っていない。

 

物理的な次元において、万人にとって良きことというのは存在しない。万人にとって悪いことというのも存在しない。

 

先進国の社会の教えは、答えを導き出すこと、より良くなること、到達することがベースだから、その刷り込みにより、人は○○の方が良いのか、悪いのかを常に導き出そうとする。悟った方が良いのかそうでないのかと言う思考に発展する。

 

すべてにおいて“こうでなければならない”はないのだ。

 

 

 

 

昔の覚者(悟った人を指す言葉だが、正確には悟りとは個人を超えた意識のため、覚者という誰かを指す言葉もまた方便なのである)は、自我、観念、エゴを汚れだと言った。

 

時代背景により、そのように強い表現で伝えてゆかなければ伝わらない人々の意識が存在したことが一つの理由だろうと感じる。

 

もしくは悟りの段階が、自我を否定する意識が残っていた段階であったか。

 

源のみを悟ることを、非二元、または一元意識と表現することもあるが、その先にまだ悟りはある。

 

宇宙の源であるその一つのエネルギーは、なぜこの認識幻想の世界を生んだのか、それを体感する悟りの段階がある。

 

(何度も言うがこの悟りも良いとか悪いとかなにかより勝っているとかそういったことではない)

 

ここを悟ると、観念すら、エゴすら、源である神であるそれが知りたかったのだ。と、理屈を超えたところで分かる。

 

こうなると、別にだから悟らんでもええわ。と、言う視点に入る。

 

だがしかし、パラドックスだ。

 

悟らんでもいい、があるなら、悟ってもいいわけだ。

 

 

 

私は非二元から更に悟りが深まると並行して、悟りを伝えるのを何度か止めようと思ったことがある。

 

その度に、それは悟ったからそう思うだけではありませんか、聞かせてください、という御言葉を誰かから頂く。

 

何回かそれが続いたことと、それを否定する自我がないこと、なにをしていてもしなくとも“それでいい”という全肯定の視点から、残るものだけが残って、今も悟りとその意識で世を生きる智慧について伝え続けている。

 

 

ブログの広告で出るヒーリング等のご案内は…

ブログを再開してから数日、たくさんのアクセス件数に感謝しております。読んでいただいてありがとう。

 

今、気付いたのですがブログ記事のトップにヒーリングだとか解放のワークの案内の広告が表示されていますが、

 

私のエネルギーワークや会とは一切関係がございません。

 

はてなブログのサービスの一環のようです。

 

お間違えのなきよう、お願い致しますね.。.:*・°

 

言葉はきっかけ

 

続いてこうも話した。

 

私はね、私のTwitterでさえ、読んでこんがらがるくらいなら読まない方がいいって伝えてるの。

 

友人は笑った。

 

でも、ほんとそうなのよ。

 

言葉が気づきのきっかけになるならよいけれど、言葉に縛られて思考がぐるぐると回ってしまうようなら、それは本末転倒なの。

 

 

友人に話したことは、すべての方にお伝えできることだ。

 

スピリチュアルや、精神世界系の本やブログやYouTube等で、思考に思考を重ねていないか、よく観察して欲しい。また、読んで知った気になって、エゴが増長していないか観察して欲しい。

 

私は幸いにも悟りと言うものを知らずに、様々な人生体験をしている内に、ただただ人間の幸せとは心次第であると気づき、己を縛りつけているその心がどうなっているのか観察に観察を重ねた結果、求めてもいないのに悟りが勝手に表れた。

 

ただ、それだけである。

 

どんな人の言葉もただ、きっかけである。

 

誰かの言葉が“正しい”のでも“間違って”いるのでもなく、それを見聞きしてあなたは何を感じたのだろうか。

悟りは 言葉にはならない 9

悟り後の在り方を観察して

 

私は この体を通して体験される小宇宙が

 

とても幸せになった。

 

 

 

たとえ、ふと 日常で些細な心の動きで苦を感じても、

 

好きなように無我にも入れる。

 

そこに苦は継続できない。

 

 

 

この世は神の 体験場であるが、

 

なるべく翻弄されずに、体験を楽しめるといいね。

悟りは 言葉にはならない 8

悟り後、すぐにすべてが楽になるわけじゃあない

 

視点が大きく変わって

 

人の世とのギャップをに戸惑う心も

 

洗い流していく必要がある。

 

それに、現代社会では、聖人みたいにすべてを受け入れていれば生きれる仕組みになってない。

 

例えば、山のように仕事がやってきて、なんでも はい、はい、と受け入れても、体が駄目になるだけで、

 

しかも企業はそんな一人一人に大きな印象を残すわけでもなく、

 

体がロボットのように、消耗するだけでは駄目なのだ。

 

時にはNOを言うことだって愛だし、それは智慧だ。

 

 

 

現代社会にそぐう悟り後の在り方があると思う。

 

ここを分からずに、苦しむ方も、いるにはいるのだ。

悟りは 言葉にはならない 7

時代が時代なだけに、悟り後の赤裸々さも書く必要があると、手が自然とこれらを書く。

 

 

世の中の悟りの話しは

 

きれいなだけが多いだろう。

 

そこに、悟り後の方がまた苦悩する。

 

 

ずっと愛でいられない私は、ダメだ… なんてループにはまる方もいる。

 

 

人の世にいれば、そんなことはないですから。

 

 

 

 

 

ただね、悟り後には悟り後の人生のあり方のバランスがあると思います。

 

そういう事も、お伝えしている日々であります。

悟りは 言葉にはならない 6

Twitterとかブログとかやってると

 

こういうことがたまに起こった。

 

悟りを伝える以外に体が残った理由がなかったのに

 

伝えても伝わらないことが起こることに

 

なんどか嫌になった。

 

嫌になるのも、心の働きであるから、

 

それはまた内観して昇華する。

 

そして立て直す。

 

 

 

 

悟っても心の働きが起こるのかと、不思議に思う方もいるかも知れないが、

 

話すとは、言葉を構成する認識が必要になる。

 

認識は認識を呼び、感情に発展することができる。

 

だから、悟っても人と接すれば感情も使える。

 

 

 

まぁ… 悟り当時は中々感情に至るまで分離できず、いつも淡々としてはいたが、

 

その後人の世に向けて、人に見える喜怒哀楽をもう一度再構築できたのだ…!