ネガティブもポジティブもない

起きていることは

ただただ中立であり

意味と言うのは個々の

見方によってつけられただけのもの

 

ネガティブな解釈も

ポジティブな解釈も

見方のひとつ

 

起きていること自体はそのどちらでもない

そのどちらでもない視点のとき

意味付けをする個が極めて薄いとき

全体性の流れの中で

すべてをただありのままに観るでしょう

 

その意識状態である時

感想と言うのは消えてしまう

ありのままに観るとは

同時に言葉が消えること

 

この社会では言葉なくして暮らすことは

不可能に近いから

深く深く目覚めた場合に

取られる手段は

隠遁するか

社会にある程度合わせて

社会の言葉を使って交流し続けるか

そしてそれもまた

全体性の流れの中で起こるでしょう

 

 

 

 

ここまで書いたら穏やかな至福が( ˘ω˘).。.:*・°

さっきまで瞑想でシナプスと多次元の連鎖を観察していました。

便宜上今も自分を指す場合には“私”と言いますけれども、その私とは多次元のエネルギー連鎖で成り立っています。

私は私の(=宇宙)構成を観察するときとても満ちたります。

源がどのように多次元を展開して行くのかを、観ることが、身体がある上での満ちる瞬間のひとつです。

宇宙とは多次元とはどこか遠い所にあるものではなく、今この瞬間にすべてが同時に表れています.。.:*・°

 

 

 

だからなんだということも何もないのですが

手が書いたから記事をあっぷするよ( ˘ω˘).。.:*・°

 

 

 

死の体験とその後

体験の情報と言うのは、役に立つ場合とそうでない場合がある。

それはこの世で視点を持った時点で陰陽の両極が発生するから自然な事である。

何を読んでも体験に囚われてはいけない。

体験談は体験した事に対する認識の合致(答え合わせと言う比喩でもいい)の為に用いるほどで充分だ。

 

と、いつものような前置きから早速体験談を書くことにする。

 

 

先日、ある文献を見つけた。

著者プロフィールの無い、誰が書いたかも分からない、たった2ページの中に私の記憶が呼び起こされた。

(もはやしつこいのでそれを体験した私もいないですけどねって一文は省く事にする。いや、カッコ内に書いちゃったね。うん。)

 

私は悟りに至る過程で自分の人生を走馬灯のように見た後に全ての自我が死んだという体験をしているが、その前に肉体としての死も体験している。

 

その過程をその文献は完璧なまでに描写していた。

 

以下はその引用である。

 

“死の瞬間

 まず、死の瞬間から。死の直前には、感覚器官が働かなくなってしまう。よくテレビなんかの臨終シーンで、明るいのに「暗いから電気をつけて」などという ことがある。あれは本当だ。音が聞こえなくなることから始まって、何も見えなくなってしまう。そして、嗅覚も味覚も触覚も次々と衰えていってしまうのだ。
 それから、意外なことに、まだ生きているうちから身体を構成している要素が分解し始める。分解されて、“ 自性(じしょう)” に還元されていく。自性とは、この世を構成している物質的な根源で“ 地”“ 水”“ 火”“ 風” の四つのエレメントからできている。
 初めに、肉体が地のエレメントに分解される。このときは、自分の体がぶよぶよになるというか、何となく変な感じだ。そして、それを感じているのは、今までの自分ではない。もう一人の自分――、つまり魂がそれを感じているのだ。また、この過程では、黒と黄色の混ざったような色を見ることができる。
 次に、血液や体液が水のエレメントに分解される。このときには、鼻汁が出たり体がむくんだりする。血液の流れもこのときに止まってしまうのだ。ヴィジョンとしては、「水に映る白い月」というイメージの色がパッ、パッ、パッときらめいている。
 さて、今度は、体温が火のエレメントに分解されていく番だ。下腹部から冷えてきて、その冷たさは背中を伝わって全身に広がっていく。体が冷たくなって、 動きがぎこちない。硬直しているのだろう。自分の体がまるで鉄になってしまったみたいだ。また、この過程では朱色が見え続けている。
 最後に、息が風のエレメントに分解される。このときは、呼吸しづらくなってしまって、息苦しい。呼吸したい。呼吸して生き続けたい。そういう生命に対する抑え難い執着が、一気に表面化する。愛している人と別れるのは嫌だ。死ぬのは怖い! すでに、肉体的な痛みや苦痛はないが、死ぬことに対するひどい恐怖を感じるのは決して避けられない。わたしはそれを経験した。嫌だと思った。でも、わたしの気持ちなどにはお構いなしに、死ぬための手続きは進んでいってしまった。魂は、青緑色を見ている。呼吸が少しせわしくなったかと思うと、最期に長い息を吐き出す。……そして、すべてが終了した。こうやってわたしは死んだ。”
 
                                     

悟りの過程とはみんなこうであると思ってはならない。そんなのは概念だ。

ただ内的探求も深まればふいにこういった体験が起る場合がある。

しかし8~9年あまりの歳月を経て、この体験が書かれているものを私は初めて読んだ。

 

私は悟り後、しばらく肉体の一切の煩悩が無かった。

食欲も、味覚も、睡眠欲も、性欲も無かった。

悟り後初めて口にしたものは、まるで味の無い砂を噛むような感覚であった。

舌に物体が触れる感覚はかろうじてあったが、味を感じる感覚器官が分解されていた。

 

そんなことを訴えたところで理解されるはずもなく、仕方が無いので私は味覚を再構成した。再構成は意図するだけで充分だった。

 

次に、空腹が発生しない代わりに、満腹感を感じることも無かった。

悟り前、食は細い方であったが無限に食べられてしまう。これはこれで人間としては訝しがられることは明白であったので、ある程度のところで満腹感を感じるようこれも意図した。

 

全くおかしな話しではあるが、私は一般的な人間に見えるようにこの身を再構築するところから2008年のその歳がはじまったのだ。人間は、前例がいくつか無い限り一般的でない人間の話しは中々信用しないのを知っていたからだ。知っていたというかそういった宇宙の智慧が自然にこの身を存続したのだ。とりあえず病院送りにならないように気をつける必要があった。送られたところでこの身を通しての世界は至福だったのだが、誤解していく周囲の苦しみが先に見えていた。

 

で、まぁこれがくぅちゃんのバカかわいいところ(自分で言ってみる)ではあるが、再構築に一生懸命すぎて数年かけて一部の意識が飲まれていった(宇宙の流れとしてはこれすら必然である)。地球の歩み方を取り入れすぎてしまった。例えば人間は無限の体力があるとそれはそれでどうなってるんだってなるから、ある程度のところで疲れようとか再構築してしまい疲れるし、地球では暮らしの維持にお金がまだ必要らしいと認識し始めてバイトに出るも、中々人間の自我の動きに合わせて返事をすることができない。そして自我の世界で人っぽくする演技をし続けたら、結局それが段々苦になった。

 

いい感じに自我が構築できた頃、思った。(ここが)インドとかならよかった!

こんな事しなくても無我の境地に入ってることが許されて、悟りの話しを聞きたい人たちがいて、取り繕わなくてもいい…。(だが一方でこの身がインドに無い理由と言うか、その宇宙の流れも悟っていた。)

 

この頃は悟りの話をしても友達に普通になってほしいと心配されるだけだった。もしくは真理を直球で話すと、時に相手の観念を刺激する事になり、怒られたりした。

 

私は日々の最低限の仕事をすると、いつも一人山の中へ行きそこで何時間も過ごした。自然のエネルギーは静かでよかった。

 

だが世界を創造するのもお手の物になっていたので、この社会に居ながらにしてこの身を無理なく生かす場を創造したのだ。今はそれが全て物理世界で具現化したので、穏やかに暮らしている。

 

が、この穏やかな暮らしを始めた頃に取り掛かるべき事があった。

構築した自我をまた解いていく事だ。

物質体の機能の構築、自我の構築には注意が必要だ。

なぜなら創造したものは再び体験しきらなければ終わらないし、構築したものを俯瞰している余裕が日々の流れの中にないと、人はまたその自我に少なからず飲まれてしまう場合がある。

 

が、再構築と体験とまた解いていく作業の中で、意識は最初の悟りより拡張する。

智慧も拡がる。だから全ての流れは無駄な事などない。宇宙に無駄は無い。

 

 

さて、肉体の感覚器官と自我の死を経たときに、実は私は一時的に肉体の無いハイヤーセルフになると言う体験をしている。このことはまたいつか書くかお話しする機会があればその時に。

 

 

長々と今日も読んでくださってありがとう。

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多次元意識

一昨日友人に会うために京都へ向かい、一泊して帰ってきた。

 

道中、つくづく私は体感はあっても精神世界的な用語には疎いなと俯瞰していた。疎いというのは良くも悪くもなくて、ただそれにより3次元の中で起こる誤解について観察していた。

 

言葉というのは、同じ国の人間で同じ言葉を使っていても、同じ認識をしているとは限らない。(更に細かくいえば“同じ理解”というのは存在しない。ボディが違えば理解するフィルターが違うから。)

 

とくに形のないものは伝えた気になっても伝わることなんてない。

 

あなたは丸って形を、丸を見たことない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

甘いという感覚を、甘いを知らない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

精神世界用語というのは、私にとってはそれらと同じだ。

 

だから、私にとっては大切なのは言葉ではなくて、その奥にあるもの。

 

何年も私のツイートを読んでくださっている方はご存知の方も多くいらっしゃると思うが、私の言葉に一貫性はない。

 

悟りっていうときもあるし目覚めだ覚醒だというときもあるし、更にはそれらも認識する意識がなければ無い、なんて言ったりする。

 

私を浅くしかご存知ない方には誤解を招く場合がある。目覚めと覚醒と悟りは違うって“認識してる人”には私は決して理解されることはない。

 

サマディとか真我とか神我とか無我とか大我とか‥

 

その分類が意識上にない私は、分類で見る人からは理解されない。

 

そして更には色々な精神世界の用語を理解している方々同士のやり取りを見ていても、ひとつひとつに対する理解が違うから、結局“同じものを理解する”ということを人が求めるのは不毛なんだ。

 

解脱って言葉ひとつにしても、語ってる先人はみんな少しずつ、時に大きくその認識は違う。

 

 

でね、理解されないことは別に現段階ではどうでもよいことなのだが、

 

そう言った“3次元だから起こる誤解”とか、“3次元の言葉があるからこそ”各々の中に認識のズレが生じて、それが体験というものを展開していく仕組みをじっと観ていた。

 

言葉とは不毛であると同時に、

言葉があるから体験が色濃くある。

 

3次元すごいなぁああ

 

って。

 

 

 

そんな長い前フリを自らぶった切って、先ほどの瞑想の中で観て来た多次元を、3次元の!言葉にしてみました。ツイートしようと書いていたら長くなったのでブログにしてみた。

 

 

.。.:*・°

 

 

5次元、またはそれ以上の次元においてすべてのパラレルワールドはすでに起こっていて、けれど3次元の視点におさまっているときには、パラレルワールドの中のひとつの現実のみを体験するの。体験とは‥つまりパラレルワールドのチョイスということになるけれど、今発している精神的、物理的な周波数で毎瞬間無意識にそれをチョイスしているんだ。目には見えなくても今も無数のパラレルを行き来してる。

 

でね、3次元の行動が、他の次元にも影響を与えていて、すべては連結連動しているんだよ。だから、3次元の行動でパラレルワールドの数が増える(増えるっていうのは展開の組み合わせが増えるの意)。

 

ギャラクシーレベルのチャクラが発動すれば教わった知識ではなくこれらを理解することになるけれど、それらのチャクラが発動する以前に、通過点として目覚めや悟り覚醒と呼ばれるような領域を体験する。

 

昔からポツリポツリは存在していたし、近年はもっと増えてきたけれど、多次元意識を失わずに成長していく子どももいる。そういう子たちには目覚めだ悟りだ覚醒だというものがはっきり体感できない場合もあるよ。なぜならすでにその領域の理解は意識の中に含まれているからね。ただそれらの認識の濃度はその子の個性により異なるけれど、ね。

 

 

.。.:*・°

 

 

 

特にまとめの言葉もありませんが、今日はこれで。

ありがとう。

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物質と時空を超える

いつものようにベッドに入るも、眠気がこないのでブログの編集ページにこうして文字を打ち込んでいる。

 

そもそも人間は、真我そのものである時眠ることはない。食べることもない。眠ると眠らない、食べると食べないという二極を超えてしまうから。

 

真我そのものであるとき、自己は存在しないから、もはや“私”と表現する事ができないのだが、

 

敢えて無理やり書くとすれば、私は真我そのものに深くあったとき、その眠らない食べない領域を経験した。地球の時間軸で言うなら2008年のことだ。

 

肉体の持つ制限がそこにはなかった。体が疲れることもないし眠らずとも食べずともいられた。またその上で無限に歩けてしまいそうな体力もあった。いや、体力というか無限に循環するエネルギーがそれを可能にした。体力があるなしは、きっと関係がなかった。

 

誤解のなきよう書いておくと、悟ればみんなこうなるわけではない。大概はいっとき真我に触れて、すぐに自我に戻る。

 

また同じように悟り=不思議な能力が開花するという認識は誤解だ。

 

 

 

悟らずとも不食になる人もいるし(注:自己流で実践しないこと。私は不食を否定もしないがお勧めしているわけではありません。)

 

生まれながらにサイキック能力が開いてる人もいるし。

 

悟りとそれらは無関係なのではあるが一方で真我そのものであるとき、真我の中にはすべてが含まれているわけで、内外が消え摂取するしないを超えてしまう。疲れる個人が消滅しているから、疲れようがない。

 

 

 

私の場合は、当時これを説明する言葉を持ち合わせていなかったため、

寝ない食べないことは家族にとっては非常に心配なことだった。

説明できないから、家族を安心させるために努めて出された物を食べた。

最初は、自分で自分を摂取するような、おかしな感覚であり食べるという分離を作ることが少し大変だった。

 

眠ることも、意図して睡眠を具現化して、眠った。

 

 

 

それから時は過ぎて、食べることも眠ることも問題なくできるようになった。

 

だから今は寝るし、食べる。

 

これを書きながら、あるヒーラーさんに 普通は人間的な事を超えてくのをみんな目指したがるところを、くぅちゃんは真逆をやってきたのね。と面白がられたことを思い出す。

 

みんな目指したがるかどうかは分からないが、目指すとか目指さないとか、保つとか保たないとかそういう意識もないとき、

 

ただ全体性の流れの中で、なるべく地球的に破壊に向かないように、調和の選択として、この体を通してもう一度分離を創っていった。

 

 

 

 

分離とは、進化である。

一度目の覚醒ではできなかった事が、今一度分離と統合という二極の体験を繰り返すことにより、発動していなかったDNAが動き出す。

 

 

 

そして前フリが長くなったが、プロフィールの最後の方にほんの一行追記した。

 

テレポーテーションしました。って。

 

この数年で、物理的な制限を超えて身長や体型が瞬時に変わるようになり、一度瞑想会の座談の時間でみんなの前ででっかくなったりちいさくなったりしてしまった。(私としては非常にギャグな展開である)ザワザワする人、当たり前に受け止める人、色々だった。

 

別にサイズが変わることは意図してやってはいない。しかし、同時に人間の可能性を訪れた方に見せるための様だったと理解している。

 

ある時はぴょすこと同じミネラルウオーターのペットボトルを並べて置いておいたら、私のペットボトルがでっかくなったりちいさくなったりした。

 

ちなみに、空中から(今のところ)パンが出たりはしてないので、そこはもうパン屋さんに行くしかない。焼きたてを買うしかない。

 

 

そして体のサイズが変わる錬金術は、現代ではまったく役立たずなのである。用途が見当たらない。

昔の人が道すがら目の前にでっかい岩があって通れないから、体を小さくして通るとかならさぞお役立ちだったことだろうけれど。

 

 

で、同じような理由で、テレポーテーションもこれまでしそうになっては、食い止めていた。しかし、3回目にして私は負けた。

 

負けたっていうか、勝手になっちゃった。

 

ぴょすこにテレポーテーションしたあとLINEで報告したら、もう諦めろと言われた。

 

私がぴょすこと活動してきた理由のひとつはこういうとこでもあると思う。

 

私の体験を特別な事と思わない、寧ろギャグだね。くらいのテンションで聞いてくれる、かといって勿論バカにするわけでも、いい加減に扱うでもなく、アッサリした切り返しの中に愛がある様が心地よいのだ。

 

ホリタツも同じようなやつだ。そゆとこがいい。

 

今はTwitterにはいないが、交友関係が続いている、一部の方はご存知であろうてんちゃんもそんなコだ。

 

話しは少しそれたが、初テレポーテーションは車の運転中に車ごと起こった。

 

幸い家からそう遠くない場所から、近所へのテレポーテーションだったので、無事帰ることができた。

 

時空の歪みを感じた瞬間、次の場所にもういた。

想像してたよりずっとナチュラルな体験だった。

 

ホリタツには近所でよかった、メキシコあたりに飛んでたら泣いてたw とギャグ的に報告しといた。

 

そうだねと彼は笑っていた。

 

 

 

これを書きながら、一方ですべて当たり前の体験だという視点も実はある。

 

アストラル界の住人であれば日常茶飯事、我々が顔を洗うくらいに簡単な話しであるし、

 

寧ろそういった視点から見たら制限のある物質界は、すげえ!分離してるぅうう!

 

って逆に新鮮なことでしょう。

 

 

 

なにも目指さなくていい。

 

しかし、こういう体験が訪れる場合もあるね。

 

っていう情報シェアの記事でした。

 

 

 

あなたの気づきは唯一無二

先を行く人だけがグル(導師、教師)であるというのは地球的概念である。

 

そもそも宇宙的視点で観ると、後とか先とか上とか下とか過去とか未来はないですから。

 

球体が目の前にあるとするでしょう?
今、ここが上、頂点と決めても、ゴロンと転がしてしまえば上が上でなくなるのと同じことです。

 

上とか先とかは、今、決めただけ。
次の瞬間はもう違う。

 

 

私は、スピリチュアルや精神世界の多くの教えが、今も尚この上下や正解不正解から抜けてないなと感じます。

 

勿論、抜ける抜けないも地球の二極的な表現なので、このお話しにも表現に限界があるのですが‥それでも今日は敢えて書いてみようと思います。


ちなみに、なんどかTwitterなどでも書いたかもしれませんが、私は私の気づきを書いているだけで、特定のどなたかを否定するものでは決してありません。

 

また、私が正しいと主張するものでもありません。

ただ、私は私の表現をし、誰かの気づきのヒントになるかも知れないし、ならないかも知れない。

 

ただただ、それだけの事です。

今日も読んでくださってありがとう。

 

 

 

先を行く人だけがグル(導師、教師)であるというのは地球的概念である。

 

と、冒頭で書きましたが、

 

グルというのは人の認識です。
グルというのは結果周りがグルと見ているからグルなだけで、もしもほんとうに上下や後先の思考からその人が外れていれば、グルは自分をグルだとは感じていないでしょう。

 

私が最初の覚醒後、一番不思議に感じたのは、上下後先はないのに、なぜ“導く人”がいるんだろう。でした。


師弟子という分離感が、とても不思議だった。

また、覚醒したから、探求の終わりだと主張するその視点も不思議だった。

 

終わりも、始まりも地球的概念の認識でしかないから‥なぜそう言い切れるんだろうって。

 

でも、地球の概念を超えたことは地球の言葉には表せないから、方便としてそんな風に語るのかなとも感じていました。

 

実際私も多くを語るにあたりすべてが方便であっても、それしかできないから語ってきた面があります。(そしてそれしかできないことにもまた学びや気づきがあります。)

 

ほんとの所は、文字の先にある文字を超えたものをお伝えするための、文字です。

思考を超えた先にあるものに触れるための、文字です。

 

 

 

そして、覚醒しても、毎日何かに気づく事ができます。気づきに終わりはありません。

 

肉体がある限り、無数の認識が続き、認識とは必ず気づきをもたらします。

 

先日DNAに触れた記事を書いたように、私も毎日気づきがあります。

 

 


そして、その気づきのきっかけは、いつでも誰かとの関わりの中にあります。

 

私は地球の体験を今回この肉体を通ししていくにあたって、とてもユニークな設定がなされたようです。

 

私は、これまで地球に伝えられてきた多くのグルと言われて来た方々のやり方が、一切と言って良いほど取り入れる事ができません。

 

それは、取り入れたくない、のとはまったく違い、それはその方のやり方のひとつだね、という尊敬に似たその方への全肯定で、終わるのです。

 

もしくは、何かをレクチャーしてもらいに行ってみたい、と感じても毎度足止めをくらう。

そして、内なる声が響く。

 

「あなたは、あなたのやり方で、気づきなさい。」
(実際にはあなたという対極を指す言葉ではありません。言葉を超えたインスピレーションです。)

 

 


私には特定のグルがいないかわりに、言ってしまえば関わるすべての方がグルです。

 

お話ししながら、クライアントさんとの対話でも学び気づきます。友達との対話でも。

 

私はどこかの秘境にいかなくとも、修行場にいなくとも、何か特別なワークに参加しなくとも、気づきのきっかけは、自然に暮らしていれば、自然とやってくる。

 

もちろん、世でグルだとかマスターと言われている方に、思考の良し悪しではなく感覚として惹かれるのであれば、是非それは関わりの体験として会いに行ったり、何かを受けるのもよいと思います。

 

ただ、私はそれもよいけれど、それだけではないのよ。あなたには、あなたの気づきがあって、グルの言ったことを盲目的に信じると、それは新しい概念になってしまうかもしれない。と、いうことをお伝えしたい。

 

再三お伝えしている通り、気づきのヒントになるならよいのです。

 

しかし、グルの言葉=答えと思い込んでは、もうなにか曲がってしまっている。


あなたは答えを探しに行くのではない。
あなたはあなたに気づくために、誰かと関わる。グルであろうと、友人であろうと同じことです。

 

読んでくださって、ありがとう。

 

 

 

DNAから見える反応のパターン

瞑想によりDNAを観察していた。人間は動物的な本能の反応と、意識的な解釈が連結して、他者と自分に対する思考感情に繋がっている事がDNAから見える。

 

例えば火を触ったら熱い→触り続ければ皮膚が損傷する→だから触らない、という動物的な判断(反応)が火に触れそうになると無意識の中で瞬時に行われるわけだが、この反応パターンに、意識的な解釈が結びつくと人間は自他に対するネガティヴ(またはポジティブ)な解釈に繋がる。

 

“動物的な反応と同じパターンで、他者と直接的に自分に繋げて解釈してしまっている”のだ。

 

例えば、aさんがbさんを否定したとしても、それはaさんの心の動きであって、bさんそのものの事ではない。

 

aが仮に火だとしたら触らなければbは無傷なのだが、火を触ると火傷する、の段階で反応が止まり、しかも触れてもいないのに触れた気になって反応している。

 

それらの反応の関係性(連鎖)で自他を解釈しているのが人間だ。

 

aが私を否定した、だから私は駄目なんだ、とかそんな事を言うaが間違っている、等と無意識にa(火)の反応と自分自身をbは繋げる。

 

火に触らなければbは無傷なのだ。

 

それは単純にaと関わらなければよい、という事でもあるが、aの言動行動をbが自分に結びつけなければbの心にはなにも起こらない。

 

瞑想や内的観察で、自分を縛る様々な心から解放されるのも大切ではあるが、

 

そもそも相手反応と自分を繋げすぎている事に人間の苦はあると見る。

 

 

 

 

 

瞑想によりプラーナを満たす

人間は多重構造である。

 

肉体には何層かのエネルギーボディが重なって存在しており(重なるとは比喩であるので‥多次元的に同時に表れていると言ってもいい)、

 

同時にチャクラというエネルギーを出し入れするエネルギーセンターと

 

エネルギーの通り道であるナーディーというものが存在する。

 

本来これらがプラーナという生命エネルギーで満ちている時、人間の心身には疲れも不足感もない。

 

反対にプラーナが不足し、エネルギーボディやチャクラやナーディにエネルギーの詰まりがある際に

 

精神的な不調和や肉体の疲れに繋がり、放っておくと時には病となる。

 

瞑想により意識をあてた箇所にプラーナは集まる。プラーナは詰まったエネルギーをほどき、また、満たす作用がある。

 

 

 

近年、このプラーナは科学的にも発見されており、科学の世界ではソマチッド(ソマチット)と呼ばれている。

 

そして一部の科学者が瞑想を推奨する時代となった。

 

精神世界と科学は結局、おなじところに行き着くのだ。

 

 

 

ありがとう。

 

地球を体験する皆様のその心身が平安でありますように。