変化

至福に溶けそうになりながら、人間の体を通して地球を体験するのは無常だと思う。すべてが移ろいでゆく。ずっと一定であることは何もない。

 

人生の乱気流を抜けたなら、多少の向かい風が起こる日があっても、大体穏やかでいられる。苦しみの波に飲まれてどうにもならないことは、起こらなくなってくる。

 

そういう中にいる。

 

それでも、人間である以上予想もつかない事がまだまだあるんだな、と私はこの数日嬉しくもあり、しかし執着もしない、体験者と俯瞰した視点が同時にある中で、ただその様を見ている。味わっている。

 

数日前、昔から世界中を旅していて、近年はよくインドに行っている友人(目覚めびと)から話を聞いて、富士山の麓で開かれたヤグニャと呼ばれるインドの儀式に2日間参加してきた。

 

私はこういったことに、良くも悪くもない意味で興味がわかない人間であったが、なんとなく今回は行ってみようと思った。

 

なんでも、日本に自然災害が多いので、供養と平和の祈りにお坊さんがやってきてくださったのだという。

 

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3日間の内早朝から昼過ぎまで、中日は夜の部もあり、休むことなくマントラが唱えられる。楽隊の賑やかな音楽が奏でられ、会場にはなんともいえないインドのお香のような、燻された香りが立ち込める。ギーと言われる油と薪と様々な植物が燃やされる。

 

私はこの人生で儀式や修行みたいな事に縁はなかったが(自己流ですべてを観察して悟った)、何千年も続いているインドの教えに基づいて真摯に祈りに向かう姿や、その音や空間のエネルギーの清さに、私はただ目を閉じて瞑想していた。瞑想していると、普段1人で行うのとはまた違った領域に気づく。気づくし、知らなかった面の理解が起きたりもした。

 

私の瞑想は、今ある自分のエネルギーを調整すると同時に宇宙の成り立ちを観察するような瞑想に自然となる。度々サマディに入って、全体に溶ける時間を交えながら。

 

沢山の発見があった。

理解が深まった。

 

私は魂の記憶の中に、何度も形を変え布教していた感覚があって、古き良きやり方はもう充分だし、それに宗教性の在り方が時に真理を歪めてしまう(神を自分の外に見るやり方が場合によっては意識上に分離を生んだり、崇拝になってしまう場合があることを懸念した)から、その辺りを今世の最初の悟りの後に、そうではないと伝えに来た感覚があった。あなたと神は同一であり、上も下もない。その部分を強調するために、俗世に居て、見てくれは一般の人間でどこにでも居そうである事が大切であったのだ。悟りは限られた人間にだけ起こるものではなく、布一枚まとっただけの、修行者や僧侶にだけ起こるものではなく、こんな感じの人間が悟るもの、という集合意識に対して、そんなものはすべて概念なんだ!そう伝える為にここに居た。だから、私自身はまったく伝統的なやり方には入っていかなかった。

 

時に懸命に信仰しているタイプの人間からは、なんてやつだ(信仰の対象を冒涜している)と思われたこともあったが、なんてやつだと思うその心を是非観察して頂きたいと思っていた。それはあなたの解放だからだ。

 

私は一度も、なにも冒涜していない。冒涜は冒涜と感じるものの中にある。信仰すら超えなければあなたはあなたの本当に知りたかった所に、出会いはしないのだ。そんな風に世の中を見ていた。

(勿論信仰する自由もまた良し、と思いながら。すべての道に、体験に、誤りはないから。)

 

だけどきっと、何らかのサイクルが穏やかに終わりを迎えたのだろうな。ただ1つのものに向けて、儀式をするってとてもいいな!儀式自体と言うよりは、エネルギー的にとても良い、と感じた。

 

すべて良しのこれまでのゆるゆる自由さも、真摯に一点に向けてエネルギーを捧げるのも、全部良い。

 

今回のヤグニャを教えてくれた友人が、冬になったらまだインドに行って、洞窟にこもって無言行をやろうかなと言っていて、ちょっといいなって思ってる。それはいつかどこかの私がやりたかったことでもある。やらなかったことでもある。

 

ここ最近、地球での私の在り方に変化の予兆がある。大体どうなるかは見えているが、まだ3次元に繋げる部分がはっきりと見えていない。やるだけ、なのかもしれないが。

 

私は私の行く末についてなにも約束しないし、約束した所で無常には逆らえない。ただ確かなのはもっと自由になってゆくだろうこと。自由に限度はない。

 

これを読んでいらっしゃるあなたがもしも、不自由さの中にいるなら、しっかり自分を観て、やりたいことをやっていってほしい。あなたはあなたを楽しむために、そこに居るんだ。あなたの体験を、あなたの思考の制限で狭めぬよう観察があって、無常の中を思い切りそれぞれの形で楽しめばいい。

 

 

 

ありがとう。

 

多次元と悟りと日常

おはよう。

数ヶ月ぶりの更新です。

Twitter上ではメッセージがやってくるたびに書き綴っていますが、メッセージはいつも突発的に脈絡なくやってくるので、パッ!っと書いて終えることができるTwitterが、合っているし楽なんですね。

 

対してブログというのは文をまとめていく作業が僅かに挟まるので、感覚的には少しスローな感じになる。風のように軽やかに、その瞬間にしかいないことが多い意識としては、そのスローさに意識の密度を合わせる感覚に中々ならない、というのが本音です。

 

別の言い方をすれば、いつも最適なことが起こるから、Twitterであってもブログであっても、書く時がその時。という感覚でもあります。

 

常にその瞬間にしかなく、また同時に多次元的な意識である脳内を、文字にするのは難しい。宇宙人がミステリーサークルでメッセージを伝えようとする感覚がちょっと分かるような気がします。絵とか、図形とか、音とか、そういうものには無数の情報がある。無数の情報を、パッとその中に表す。

 

今朝もね、起き抜けの寝てると起きてる、の間の意識の中で、私は別のパラレルワールドをリアル体感で体験していました。それは夢を見てる時の感覚に似ているけれど、物に触った時の体感だとか、におい、そういうものがとてもリアルなんです。で、そのパラレルワールドを体験しながら、それを俯瞰している多次元意識も同時にある。体験しながら次元と次元の関係性の理解をしていたりだとか、パラレルワールドの中で目に見えない存在からメッセージが来たりだとか、パラレルワールド内の日常でも今居る現実と同じように行為をし、何かを感じたりしながら、その感じてる事に対して、多次元的な解説が入ったりもする。で、目が覚めた時、目が覚めた意識でまたそれらを多角的に理解する。

 

朝から忙しい感じですが、本人としては非常にリラックスした状態だし、体はほんのり至福感もまじる場合もあります。今も、体はほよほよゆるゆる、気持ちがよい。

 

目覚め(非二元の悟り)の話でよく、すべて幻想であり実在していない、という文句をよく目にするようになってきた昨今ですが、“自分”だと思っていた意識が全体に溶け去ると、すべての境が消滅します。そこにはあなたも私もいない、物もない、愛しかない、愛すら愛と言葉にするまで愛という感覚ですらない、何も無くて全部在る、その中には多次元も存在しません。

 

では多次元というのは何かというと、その何も無いものがすべてに表れていく時の仕組みのことです。何も無いものが、なぜすべてになって表れたかといえば、純粋にすべてを知りたいとそういう意が最初にあったからです。

 

ですからすべて幻想、実在していないというだけでは悟りの段階としては半分行ったところです。それを悟ったところで、肉体の感覚はあるし、今までの暮らしも続きます。当たり前にそこに人間としての生活があるのです。なぜすべて幻想であるのに、それらがあるか?って事に気付かないと、場合によっては投げやりになってしまう。非二元的な伝え方では、投げやりなるのでさえ、考え、思考でしかない、と言うかも知れません。その伝え方が間違ってるという事ではありませんが、それは見方の一部だということです。

 

何も無いものがすべてを知りたかった、という悟りが起きると、何も無いがすべて在る宇宙のその呼吸のような全体性を、肯定感で見ることができる。

 

その肯定感の上で、宇宙の成り立ちを見ていく。それが多次元感覚です。それは中立な意識でなければ、正しく見ることは難しいかも知れません。意味づけがなされたら、見えた仕組みが解釈によって曲がってしまうから。解釈によって曲がってしまうというのは、簡単にいえば多次元の成り立ちに善悪や優劣をつけてしまっては、それもまた幻想ドラマである、ということです。幻想ドラマを悪いと言っている訳ではありません。でも、ヘタすると魔境と言われる意識に入ってしまうから、中立な意識で見ることが大切なのです。そういう意味では非二元の悟りを経ることは大切です。

 

魔境というのは、純粋な意識で入ってしまうから、中々気づけない。例えば人類が楽になるようにという慈悲を持っている場合に、導けるのは私だけ、真実を知っているのは限られた存在だけ、という思い込みに発展していくことがある。それはもう悪気がゼロなので、そこにはまった場合には本当に深い内観が必要になる。

 

導くも導かれるもなく、すべてが同じ宇宙の根源の表れである。

 

その上で、その体を通してしか知れないことを体験していくために、その体が在るということを体現してゆけたら、それは本当に豊かだと思います。

 

まだまだ、すべてを書き切れた感じはないのですが、これから友人に会いに出かける準備をします。

 

久しぶりの更新の上、長々と読んでくださってありがとう。

あなたはあなたのために

基本的なことを今一度書きなさい。

そう聞こえる朝。

手が動くままに書くことにしよう。

 

 

 

私はいつか、許せない人がいた。

それは地球時間でいえば数年に渡った。

苦しかった。

 

ある時目にした言葉。

“あなたのために、相手を許すのです。相手を許さない限り、その思いに苦しむのは自分でしかありません。あなたのために、相手を許すのです。”

 

腑に落とすには、少し時間がいった。

自我は抵抗した。許さないことで、辛かった自分を守っていたからだ。許したら、自分がどうにかなってしまいそうな気さえした。

 

しかし次々と同じような言葉が、色々なところからこちらに入ってきた。人から聞く話やテレビや本。不思議なくらいに、目につく。また、目につく。抵抗しつつも少しずつ、それを認めて行くしかなかった。

 

私は忘れないように、毎日唱えた。毎日読んだ。許し方なんて分からなかったし。

“あなたのために、相手を許すのです。相手を許さない限り、その思いに苦しむのは自分でしかありません。あなたのために、相手を許すのです。”

 

私は、私のために、許します。

私は、私のために、許します。

 

色々な言葉で、自分に言い聞かせた。

言い聞かせることは、抑圧とは違った。そうやってすり込み、思考回路を少しずつ変化させていったのだ。

 

数ヶ月繰り返している内に、少しずつ許せない思いが溶けて行って、やがて私は私の思いから解放された。

 

それからまた数年経って、あるきっかけからその許せなかった相手に再会した。その時は想像していたより穏やかに会えた反面、付き合いを進めると、やはり腹の立つ人だった。根本的に精神性が合わないのだ。しかし、その場で腹は立ったが、責める気持ちはそう続かなかった。私は私のために、多くを許し上手になっていた。そしてそれと共に、私は潔くその相手との交流を絶った。許す事と、状況を受け入れ続ける事はまた違うのだ。

 

それからも様々な場面で私は私のために多くを許し、私は私のために私が幸せである、楽である選択を続けた。私が平和なら、私の世界は幸せだ。そうやって私が私を幸せにしてあげる事を続けながら、沢山の自分の観念を観察し、掘り下げ解いて行った先に、悟りがあった。まるで玉ねぎを剥き続ければ何もないように、掴んでいたものは何もなかったと、思考でも認識でもない“それ”が、ただ在った。怒涛の愛のエネルギーがハートから溢れて、内外は一体であった。すべての境はなかった。

 

 

まず、あなたが幸せであれ。

あなたのために許し、あなたのために選択し、不足ではなく足りてるものに気づきなさい。足りてるものに感謝しなさい。

 

そして時には感謝できない日も、やっぱり誰かを責めてしまう日もあるかもしれない。そんな時は自分を許しなさい。自分を労いなさい。あなたはあなたのためにあなたを許しなさい。

 

まず、あなたが幸せであれ。
あなたのために許し、あなたのために選択し、不足ではなく足りてるものに気づきなさい。足りてるものに感謝しなさい。

 

(自動手記メッセージ)

 

 

涅槃

昨年12月辺りから、瞑想会等の主だった表向きの活動は自然と休止状態だった。

 

年が明けて2月のあたま、意図してそうした訳ではないが、私はこの人生において3度目の涅槃入りを果たしそうになっていた。1度目は最初の悟りで、2度目は3〜4年前に、そして今回だ。

 

【涅槃】ねはん
一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦(しゃか)や聖者の死。入滅。 「―に入る」

 

朝、至福に溶けて、頭頂から抜けて行ってしまう。

 

抜けきれば、この肉体を過ごすのは終わりである。

 

抜けてゆく最中に、毎回選択がある。

 

抜け切るのか、物理次元に残るのか。

 

ふと、残される家族や友人が浮かんだ。

 

そして、この肉体を通して観ることのできる多次元を、せっかくだからもう少し観ていこう、と浮かんだ。

 

これらが浮かぶとき私という個人が思い感じるものとは違う。ただ、そのように浮かぶ。

 

肉体を通し観察を続ければまだ気づけることはあるだろう。好奇心に似た、しかしもっと微細なエネルギーで、私は頭頂から抜けて半分まで行ったところで引き返した。

 

それに、肉体を脱いでの入滅は何回か体験して知ってるから、どうせなら虹の体で物理次元に好き勝手に出たり消えたりが自在になるなら面白い、とは感じる。

 

しかしそこにも執着がないから、どちらでも良いとも思う。

 

涅槃を説明する引用文に、一切の煩悩から解脱したー とあるが、私の感覚から言えば肉体を微細に観察してゆくと、肉体自体が多次元の煩悩で営まれているので、説明とはいつの日も説明しきれないものだな、と思う。ただ、個人的な欲から離れているという意味では、煩悩がない、とは言える。

 

多次元の煩悩とは、多角的すぎて文字に起こすスキルが追いつかないのだが、それは全宇宙の連鎖のエネルギーという表現でもいい。

 

一口に悟りだ目覚めだ気づきだと言っても、それらは無限のように深まり、何段階にも気づける。

 

そして、気づきを含めた幻想だ。

 

なにも掴むことなく、ただ気づきを流していけばいい。

 

川の水のように絶え間なく、流れればいい。

 

 

 

 

 

 

許しありがとうに気づいて伝える

私が日常の中で大切にしてきたことのひとつに、相手にして貰ったことを当たり前に思わない、して貰ったらありがとうを伝える、があります。

 

我が家では示し合わせた訳ではありませんが、日常的にありがとうを伝え合う習慣があります。仕事をしてくれてありがとう、家事をしてくれてありがとう、毎日そんなやり取りがあります。

 

相手にして貰うことを当たり前としない、感謝を伝える、はどんな人間関係においても大切なことだと感じます。

 

そしてそれにはまず、自分に対しても何かができて当たり前等という観念をほどいてゆく必要があるでしょう。人はまず自分への要求をやめ、自分を許すところから始める事が大切です。そしてそれができたら、同じことを相手にもしていきましょう。

 

自他を許し感謝したとき、人の心は平和です。

 

上記を実践する事であなたの心が、平和になるのです。そしてあなたが平和なら、あなたの世界が平和になります。

隠された教え

隠された教え、を書きすぎたのか今しがた一気に書いたものが消えました。単なる操作ミスやバグではなく、エネルギーが動いて消えてしまいました。覚醒した先の先の先のことを書いていました。ここで言う先とは時間軸上の先ではなく、連鎖としての宇宙の次の反応を語るようなそういったお話しでした。それは多分、秘境の隠された場所などで一部の人間に伝授されているような内容だったかも知れません。

 

情報というのは、全体性に対して開示が早過ぎると破壊にエネルギーが偏ります。しかし、その情報で今ある領域から変容する人もいるので、さじ加減に迷うことがあります。

 

すべては空であると同時に多次元であり、その多次元もまた、どの次元で観るかで次元に対する観え方は幾重にも変容します。

 

在ると実在しないを同時に在るのが、人間に与えられた視点です。

 

今多くの人間は自我を自分だと感じていて、そこから空に目覚めます。目覚めるというか、ずっとそうであったことを再度気づくという表現でも良いかも知れません。どちらにせよ言葉を越えていることですから、言葉はいつも方便です。

 

空においては善悪優劣は存在しません。人間の多くはオリジナルの、または集合的な善悪と優劣に縛られています。そしてその縛りすら良くも悪くもない中立な現象です。ですから、縛られていることと、それらから解放されていることは、空においては差はないわけです。どちらを人の身体を通して体験してゆくかは、自由です。その自由さを人間の視点上では選択できます。

 

私が今朝最初に書いていたことは、今地球で語られている目覚め、覚醒の、先の先のお話し、地球で言われてきたグル(師)が弟子のカルマを背負う現象とその連鎖がない次元の話しを書いていました。今は触りだけしか書くことができません。

 

しかし、この触りを書いておくこともまた、宇宙の在りようの中で必然であるのです。

 

それではまた、必要なときに出会いましょう。すべての出会いに感謝します。ありがとうございます。

独り言のように 2

夜中2時14分

これを書いている

 

この記事をweb上にアップするかどうかは

書き上がってから決めることにしよう

 

誰にも向けない言葉は

自由に書ける

いや

まぁ いつも自由なんだけれど

更に透明になる

普段とそう変わらないか

そうだね

ただ

もっと静寂がある

 

独り言として

10代の終わりから何かを書くのはすきだった

時に殴り書きのように

時に詩のように

たくさん書いたとおもう

 

Twitterなどで何回か話してる通り

わたしは人生の色々な体験が重なって

高校は出ていない

人としての学びはたくさんあったろうが

机上の勉強は途中からほとんどしてない

 

人として

人と同じように生きないことへの

焦りや不安は充分にあった

 

でもどうだろう

あの頃独り言を書きまくったおかげで

少しの文才が身について

更にはそれが内観となって

勝手に悟りがやってきて

今こうしている

 

観察力が

尋常ではないのだと

誰かに言われた

そうだろうか?

わたしは

もう生きるか死ぬかくらい

辛かっただけだ

心を観察して

自分で自分を解放してやる他なかった

なんでも

何回もやれば

その部分は極まる

ただそれだけ

 

いつか死ぬのに

なぜ苦しんでまで生きなきゃならないのか

疑問だったんだよ

あの頃はただそれだけだった

 

 

 

悟るまでの話しの中で

善業を心がけて

求めず与え感謝した

ってあったでしょう

 

あの頃の方が恐らく

人格的には聖人のようだったんでしょうね

誰かの描く聖人

 

この社会にいては

聖人のように生きていてもダメだ

って表現を私はいつかしたと思う

それは決して聖人を否定してる話なんかではない

私が人の為に命も捧げれる程に

自我が落ち愛に満たされていたときに

幼なじみたちが戸惑った

私と友の精神の在り方に

開きが生まれすぎて

職場の人にもたぶん

私は馴染みづらい人間だった

 

なにかその時

私だけ感謝に溢れ満たされていても

ある側面では

独りよがりだとおもった

その頃の私は人の喜びが私の喜びだったから

周りが嬉しくないのなら

それはただの独りよがりだ

当時はそう感じた

 

結局皆んなが求めるのはただ普通に

私が私としてあるだけで

それだけだった

 

その時

何事も行きすぎるのは

歪むものだとおもった

その社会での、中道

 

そして別の社会では

聖人のような在り方でよかったとおもう

そういうものが

求められた社会では

 

今はあの頃ともまた意識がちがうから

自分が好きなように在れば良いだけだとおもう

聖人でも凡人でも全て、空の表れなのだし

 

私は探した

当時探していた

自我が極めて薄い中で

何がこの社会にナチュラルで

宗教的に感じてしまうような誤解もなく

みんなが己を縛る心から解放されるのかって

指導者と教わる者のような垣根もなく

重々しさもなく

でも耳を傾けたくなるような

 

ひとつだけ人間の共通点を見つけた

楽しくて笑うのが嫌いな人は

そういない

楽しい話しなら

みんな遊びながら

気づいていくよね

 

クソ真面目なジョークのひとつも言えないそれが

内観から今度はトーク術を観察した

周りの人が

笑うようになった

 

そうこうしてる内に

子どもの頃一生住むことはないだろうと思ってた

東京に移り住むことになった

移り住んでしばらくは専業主婦だった

その頃頻繁にTwitterで真理をつぶやくようになって