空と表現の色と無常

空の領域以外では、いかなる人間でも全てを語る事はできません。ですから所謂覚者と言えども、覚者と覚者の伝える表現が完全に一致することはありません。どんなに深く覚醒しようとそれは同じことです。なぜなら言葉にした時点で個性の色が着くからです。時には同じ話が真逆の言葉で表現される場合もあります。

 

だからもし、あの人はこう言ったがこの人はこう言っている、どっちが本当だろう?と思う事があれば、そのどっちが本当か?を探すのをやめる事です。しいて言うなら、すべてが良いけれどもなにが“その時の自身”にフィットするか?それだけです。

 

そしてそのフィットさえ、変化するかも知れないししないかも知れない。この世の全ては移ろいゆくもの、変化するもの、無常であるから。

 

この世に肉体を持ち物心をついてから、人間は正しい事探しに意識が固定されて来ました。常に正解や良き状態を達成、または維持するという幻想に縛られて来ました。

 

そう言った幻想から解放されてゆくときのヒントに覚者の言葉を見聞きするのは手助けになると思います。しかしそこでまた正解不正解探しにはまってしまわないよう、ご自身を観察されてください。

 

人は心も行動も状態も本来流動的なものです。自然界の動植物のように、季節のように、天気のように、本来は流動的です。正しさも間違いも流動的です。見方が変われば事実は変化する。変化するとは、固定されたものは何も実在していないと言うこととイコールです。

選べるのか選べないのか

体験を選べるのか、選べないのか。 

 

スピリュチュアル界でよく言われる話だけどね。

 

5次元から見れば3次元として体験できるパラレルを選べるよ。で、5次元の選択と3次元の選択は連鎖してるから、どっちが先かなんてないよね。同時に起こるから。

 

そして5次元で何を選ぶかは、5次元を俯瞰している意識、またはデータの連鎖によっても決まるだろうから、“3次元の自分”ていう意識が選べたか選べなかったかを考察するのはナンセンスなんだ。

 

だから“3次元の自分”が選びたい事を選べばいいよ。難しい事考えずにね。

過去世という概念とパラドックス

私はこれまで、時に過去世を語る場面があったが、それは地球のスピリュチュアルで多く語られる過去世と言う感覚とは違う。

 

なぜなら私の中には過去と未来がないからだ。
過去がないなら過去世と言う言葉は方便になる。

 

そして同時にこう言い表すこともできる。“個人が存在しない”なら“誰それの”過去世も存在しない。
だから地球上で言う過去世という言い回しは方便だ。

 

地球で言われている過去世というのはただその瞬間に表れている、または連鎖しているエネルギーデータの事だから。私もあなたも“言葉ある時に”存在していると、“見る事ができる”。誰かの体感や経験があると、“見る事ができる”。

 

しかし存在していると見る事ができるこの次元、この世と言われているそれが実在すると信じる視点の割合の方が多い時、その集合的な視点にある程度の同調をする時に物理的に表れた身体と呼ばれるそれは存続しやすい可能性に満ちるから、実在しないものは実在していると仮定されたそこに合わせるのだ。

 

合わせない選択も勿論ある。合わせる合わせないの選択をする個人はそこに存在しないけれど。合わせない選択がなされた場合には、そこに言葉はない。語るものが居ないからだ。

 

この合わせるという行為は実はスピリュチュアルな表現にさえも縛られる。なぜなら人の思考は共通した言葉でしか理解できないからだ。

 

人間は言葉を合わせたがる。同じ言葉でないと違うものだと認識するからだ。そして違うものを時に裁こうとする。

 

言葉があるから、正しさを求めてしまうが、言葉がなければ正しいも間違いも存在しない。

 

言葉を合わせたがる意識によって、結局言葉を越える事がないから、スピリュチュアルな教えでさえ歪んで伝わるのだ。言葉の奥を拾うものだけが、それを知るだろう。しかし知るその時に知る個人は存在しない。

 

そんなパラドックスに混乱しなくなったとき意識は混乱しなくなる。実在しないがしているとされる次元を混乱しなくなる。

 

混乱こそ苦だ。

 

混乱しなければ苦は無いも同じだ。

しかしその視点である時には同時に苦とする視点さえ良しとしている。

 

混乱がないっていうのはそういう事だから。

 

 

 

もっと言ってしまえば過去世だ概念ださえも、全部良いんだよ。言葉遊びがこの表れている次元の表現ならば、理解できるできないさえ良いんだよ。

 

ここまで書くとまた語る事がなくなっちゃうけれどね。

 

すべてが無いと同時に

 

表れてる全てを良しとするとき

 

そこに苦は存在できないよ。

 

幻影

わたしは
わたしは
何者でもない

 

あなたは
あなたは
何者でもない

 

すべては
認識
すべては
解釈

 

解釈に
解釈を重ねて
何かを判断し


時に
あれは良い
あれは悪い
あれは正しい
あれは間違い

 

無常の視点を
頭や
胸や
腹に
巡らす

 

その視点は
すべて
わたしではない

 

その視点は
すべて
あなたではない

すべてを内包するもの

不思議なことは

それが稀なことだから不思議なのであって

常なるものとなったとき

それは不思議でもなんでもない

 

例えば

スマフォをね

江戸時代に持って行けたとして

そこで誰かに見せたなら

江戸時代の人は魔法か何かだと思うかも知れない

神の仕業だ!

ってね

 

現代ではもう

当たり前のようになっているでしょ

不思議でもなんでもない

 

私はこの身に開いた能力の話を

ブログでもTwitterでも書いているけれど

それは不思議なことでも

特別なものでもないの

すべての人間が本当は潜在的に持っているもの

 

そしてそれらの能力を開くも開かないも自由で

開いたから良いとか悪いとかもない

 

開いたなら開いたなりに

たくさんの事を学ばなければならないし

 

昔の私は単純に

色々見えたらどんなにいいか

って思っていたけど

 

見えるってことは

人間の素晴らしい部分も

そうでない部分も

丸ごと無条件に受け入れるということ

 

受け入れるキャパを養うには

やはり自身の精神的成長が必要になる

探求が必要になる

 

拒否感がなくなるまで

心を洗わない限り

見えるって事は時に苦しみだろう

 

見えるっていう慢心も捨てなきゃならない

特別な存在

誰かより優れる存在は

どこまで行っても居ないって事を

しっかり知らなければならない

 

 

また

悟り=能力が開くということではない

悟ってもなにも見えない人も沢山いる

超人になる訳ではない

至ってふつうだ

 

いいや

能力が開いたって

至ってふつうだ

分かるかい

 

私の  能力

私の  力

私の

私の

 

そういう我をすべて捨てるがいい

 

そう

そんなの他の事も同じ

私のもの  と思って

それを掴みつづける時

人は苦しみを体験できるのさ

 

分かるかい

分かるね

そうさ

 

 

山と蜂と様々な領域の視点

河原にいる。今年4月、東京を離れてある場所に引越しをした。30分も車で走れば山の中に入れて、綺麗な河が流れている。ひと月に何度か私はこの河原に1人でやって来て、

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今日の午後、ここまで書いたときにある事が起きた。その体験をここに記す。



 


「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」そう聞こえた。

 

河原に車を停車して車の窓を開け放していたら、大きな蜂が車内に入ってしまった。蜜蜂ではないようだ。私の目の前をブンブンと羽を鳴らして飛んでいる。私は蜂のいる位置を見届けた後、そっと車外に出た。刺されたりはしなかったが、さて困った。

 

こう言う時は面白いものだ。内面は静かであるのに、表面ではどうしたら蜂が車外に出て行くかと試行錯誤する。帰りの車に蜂が御同行では困る。蜂は私を試すようにフロントガラスの近くでじっとしていて、クーラーの風が当たる位置に留まっていた。

 

私はそっと車内に手をのばし、エンジンをかけた。窓から出て行きそうに見えたのでクーラーの風力をマックスにし風で煽ってみたが、それでも蜂は少し体の位置を変えただけで、そこに居るままだ。車のガラスに張る日よけシートでパタパタと煽っても、動かなかった。

 

私はどうしたものかと考えた末、私の背後にたたずむ木に蜂を車外に出すにはどうしたらいい?と聞いた。木は幼子に微笑むようなエネルギーで、蜂ごときでそんな様子では‥、と優しく答えた後知恵をくれた。

 

その知恵にしたがい日よけシートを丸めたまま、その先端を蜂に近づけると、蜂はよじよじと日よけシートに登った。登ったのを見届けると、私はそのままシートを車外に出して、蜂を逃す事に成功した。

 

その後車に乗って全ての窓を閉めると同時に、雨が降り出した。私は河原の土の上に停車した車がぬかるみにはまらないよう、その場を後にする事にした。

 

そして山道で聞こえてきたのが「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」だった。それは原理は分かるのだが、私は虫と同化するのはそんなに得意ではない。その昔様々なものと物理体の制限を超えて一体となる体験をしたが(空の一体とはまた違い、様々なものの視点になりそのものを体感する)、一体になると、場合によってはその物の構造まであらわに見えてしまう事がある。虫の構造まで見える場合、割とグロテスクだったりする。昆虫マニアにはたまらんかも知れないが、私は別の意味でたまらんのだ。

 

無我の境地でそれを体感するなら、グロテスクという判断も、それをあまり見たくないなということも消滅するからまだいいのだが、私は別に今無我になりたくない。

 

で、蜂をコントロールするには他にも方法があるのを知っていた。それは愛を持ってお願いすることだ。車外に出て行ってくださいね、と。しかし、これもまた充分に気をつけないと、逆に好かれてこちらに来てしまう。(この件についての観察とエネルギーコントロールがいまひとつなのは分かっているが、探求する気も特に今起きない)何度か虫についてはそういう事を経験しているから、今回は物理的な対処を木に聞いて事なきを得た。

 

すべてと極限まで一体なら、それは神そのものの意識と同じであるから、神の内にあるすべては意のままになる。それは知っている。そういう体験をしていた時期もあった。

 

私はその時思った。永遠に意図した事だけが目の前に表れるだけって、つまらんな。と。1人で次の瞬間なにが起こるか知っていても、なんのリアクションも生まれない。知ってた事が起こりました、以上。なのである。これは面白くない。

 

人間の体を通して何かを体験するとき、色々な事を知らないというのは体験ギフトだとそこで感じた。人間の体験は未知だから面白い。

 

なんのオチもまとめもありませんが、今夜はこれで。いつも読んでくださってありがとうございます。感謝します。


P.S.山はほんのり紅葉し始めました。

 

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意識の可動域

‪時々、数ある悟りの話の中でもご自身の体験を綴っている方はすくないので、興味深く読ませてもらっています、というお声をいただく事がある。‬

 

‪私は人は自然と気づく力があるのを信頼しているから、そして何より私は2008年に悟った後の暮らしが手探り過ぎて、先人たちの悟り後の人生がどうなったかの方を知りたかったから、体験を書いているのもある。ただの自動手記の時もある。‬ただ、あるがままでいて、見たい人が見たいように見て、何かを気づくタイミングで、気づくだけだ、という委ねた視点でブログを書く。普段はもう、それすら考えていない。野花や草木がそこに咲くように、ただ私は私で在るだけだ。

 

‪無我の境地に入ったら、ずっとそのままなのか?っていう疑問を、現代では晴らしておかないと、悟り後の俗世に居ながらにして悟った多くの人にとって苦しみになってしまうだろう。

 

‪ずっと無我でいるかどうかっていうのは、その後の環境によりますよ。無我じゃまず、対話ができないのだから、仮にできたとしても一般の仕事は無理です。人里離れた1人でいられる環境でないと、ずっと無我ということはないです。

 

‪俗世にいる場合には、意識はグラデーションのように、可動域が必要になります。つまり、あなたと私が居ると認識できる意識と、居ない意識の使い分けです。‬

 

そこに混乱しなくなった時、どんな意識状態でも良しなんだと腑に落ちている時、それは何より安らかでしょう。

 

対象無き空も、空から形となったすべても、すべて良い。一貫して伝えたいのはこれに尽きます。

 

珍しく本日2回目の更新でした。

 

 

 

ありがとう。