ひとつのマルから

みんなになって

ひとつのマルから

みんなにみえて

 

境なんて

いちどもなかったのさ

 

でも

境がないから

境が見える夢を見たんだ

 

キミはずっとすべてだし

キミはキミを越えた愛なんだ

キミはキミを越えた神なんだ

 

あんしんしていいよ

夢をそのまま楽しんでもいい

 

夢を否定することないだろう?

夢の中で夢を否定する夢もいいけどね

夢の中で夢を広げたっていい

夢の中で夢を楽しんだっていい

 

あんしんしていいよ

泣きたいときには泣いて

笑いたいときには笑って

 

いつか夢から覚めたら

夢を愛するよ

愛せないときも

愛するよ

 

キミはずっと

そのままで愛だよ

 

キミはキミを許してごらん

あるがままを許してごらん

 

誰かと比べる夢を終わりにしてもいい

自分を責める夢を終わりにしてもいい

 

キミは好きなように夢を解釈できる

 

だってそうだろう?

キミが見る夢なんだ

サマディー、悟りの段階。あるがままに。

なんの想念も浮かばないので、“何かを伝えたい”もない。

 

この記事も書かなくてもよいかなという感覚であった。

 

静寂の銀世界に、わざわざ足跡をひとつつけにゆくような、そんな動力が必要だ。

 

静かだ。

 

 

先日、インドの某アシュラムに長期滞在中の友人から、LINE電話がかかってきた。アシュラムで受けたアーユルベーダの徹底したデトックスの過程の話、エネルギーの話、インドで言う悟りの話等、色々な話を聞かせてくれて、そして時に意見を求められた。

 

私は、ツイッターのプロフィール的文章にはヨーガ用語や仏教用語なるものを添えてはいるがヨーガにも仏教にも詳しいわけではない。ブログの最初の方の記事でも書いた通り、ほぼ独学で内観や食事、行動言動を変えて行くことを徹底的にやっていたら、求めてもいないのに深い悟りがやって来てしまって、それを説明するための知識をつぎはぎのように集めて来たタイプなので、今でも知識としてデータがない部分もきっといくつもある。

 

一方で体験では一通り知っているので、専門的な用語がどういった状態を指すのか話してもらえれば、何を言われても ああ あのことか。とはなる。

 

知識は時に必要だと思う。だけど、最初に学ばなかったからなんの先入観もなかったのは確かで、知識がないから悟りに対する執着がゼロだったし、先入観も執着もないままに、当時やっていた事は本格修行者並みの暮らしぶりだった、というところで恐らく“悟りを妨げることができなかった”。

 

求める心を徹底的にしらみ潰しに滅して、与えるに徹していたら、その経過はまぁ苦しいものではあるが、あれだけやったら誰でも悟るわ。とは思う。今思うと多角的に自我が生まれる余地を与えなかったのだから、そりゃ悟る。

 

(悟りに至る道はいくつもあるので、この方法でしか悟らないということではありません。)

 

時折簡単に悟った人だと、特別な人なんだろうと勘違いして頂くことがあるけれども、そんなことは全くない。

 

ちなみに、言葉は乱暴かも知れないけれど、深まるとこまで深まったなら、悟りとか正直どうでもいい。悟る悟らないの差がないから。ふつうに、いつか肉体の寿命がやってくるまで、ここに居る。過ごす。体験する。それだけなのである。

 

人間はただそれだけに対して、何か意味を探したり、善し悪しの判断をつけたり、恐れを持ったりするから、時に苦を感じることになって(私は意味づけや恐れ苦もまた否定する事ではないと観る。そのように現れているだけだと観る。)、それらの心の動きから解放されようとまた相対性のないそれ、仏教で言ったら空、ヨーガで言ったらサマディーに、すべての本質に気づこうとする働きが起こる。

 

インドに滞在中の友人が電話越しに言う。

日本で(近年)言う悟りとさ、インドで言う悟りって、なんか違うのよ。日本て、ちょっと悟っただけでも悟りって言うけど、インドだとちゃんと悟りの段階があって、そんなちょっと悟ったくらいのものは悟りとしないのね、と話ながら、彼の目指すニルビカルパサマディーという段階の悟りについて話を続けた。

 

で、その会話をしたのも忘れて数日経っていたのですが、ふと思い立ちサマディーの段階について先ほどちょっと検索したのですね。

 

サビカルパ・サマディー……瞑想者の意識は神の中に融合し、その肉体は硬直して呼吸も心臓もほとんど停止した状態になるが、瞑想者は仮死状態の肉体を完全に意識している。

 

ニルビカルパ・サマディー……瞑想者がさらに高い境地に達すると、普通の顕在意識を保ったままで神との霊交を持続して、絶えざる至福を味わうことができる。最高の境地に達した大師(マスター、解脱成就者、如来)だけが経験できる状態。

 

私の2008年の悟り、サマディーは、ニルビカルパ・サマディーまじりのサビカルパ・サマディーだ。仮死状態と至福が同時にあったが、顕在意識は構築するまでなかった。

 

(悟りの瞬間、私という個人意識はないので、私の悟りという表現は方便でしかない。)

 

(1番最初に開いたお話会では悟った瞬間見るものすべて私だった、と表現したが、あれはほんとうに言いたかった所ではなかった。実際には私と感じるものも消滅していたから。それでもなぜあの段階を話したかと言えば、それを説明するにはもう一本二本ブログを書く必要がありそうだ。)

 

サビカルパ・サマディーから、もう一度相対性の認識世界を構築して、暮らしに戻って行ったのだが、当時は何が起こったのか把握していなかったので、手探りで構築したために、構築しなくてもいい部分もあったと今は思う。無駄な体験は何一つないから、あれはあれでいいけれど。構築してはまた紐解いて、ちょうどいい所を知る過程で、サマディーの段階、悟りは更に深まり、何の意味ももたない全てがなぜ現れたのかを理解した。

 

私は恐らく今ニルビカルパ・サマディーを3分の2も入った所くらいだと感じる。至福についてはまだらなので。そして至福とか段階とかどうでもいいのだけど、今回書くのが必然なので書いている。

 

そしてニルビカルパ・サマディーについては理解するし、分かるのだが、また一方で、このサマディーは肉体が物質の次元に残っているサマディー、悟りなので、私がこれまた入り口に入りかけている虹の体(ゴールドドラゴンボディ/女性の場合はゴールドフェニックスというようですね)は、インドの文献ではなんと表現するのだろうと少しだけよぎりました。が、それもまた気にはしていないです。気にしようとしまいと、必要なら知ることになるから。

 

虹の体は物質体が精妙な次元に移行して、または素粒子分解が起きて、物理的な次元からは見えなくなるのですが、そのまま物理的な次元に戻らない選択と、今一度物理的な次元に戻る選択があると思います。私が度々口にしている虹の体は後者なのですが、正直こちらも、何がどうあってもよいと感じているのが私の現状です。虹の体もなってもならなくてもいい。投げやりな意味では決してなく、何がどうでもそれでいいのです。なんていうか、毎瞬間をそれで良しとしているので、こういう感覚に落ち着くのですね。

 

結びの言葉が何も浮かびませんが、タイピングする手が止んだので、主要なことは書き終えました。

 

今日も長々と読んでくださってありがとうございます。

 

悟りと環境構築

何が起きた訳ではないけれど、幸せで眠れない。と、いうような事がたまにあって、今がそれだ。そして、ハートから溢れるそんなエネルギーを、誰かという“大きな私の一部”に分けたくなる。分けたいのは個人的な私から個人的な誰かにそうしたいのではなく、私が私の一部に渡したい。うーん。相変わらず地球語の表現は方便ではありますが。

 

 

そう、このこと書いておこうと思う。

あのね、目覚め(悟り)は自我の縛りからの解放ではあるが、それだけでは半分自由になったくらいなんだよね。私の体験からするとね。目覚めてずっと無我でいても許されるような環境に体が在るならまだしも、仕事をしていたり、人付き合いだったりを必要とする環境にある時、そういうものを私の個性に合わせて選択し直したり、または一から創造する必要があった。ここでいう私とは、全体と一体でありながら、同時に個人でもある、私。

 

個人の私がどういう環境にあるとき、より楽なのかをまず知る必要がある。悟った意識(全体と一体の私)であるとき、良いも悪いも考えの中に浮かばないので、何がより良いか、で選択するのは難しい。基準というものが消滅しているから。

 

でもそこからもう一度、物理的な条件として感じる良い悪いではなく、何がより楽か、を考察する必要がある。

 

私で言えば地球時間でいう10年くらい前になるけれど、とにかく好きなだけ1人で居たかった。1人で居る時が1番満ちていたからだ。“外界への反応”こそ、エネルギーが漏れ出る原因で、それこそが疲れで、とにかく反応をしなければならない環境から離れたかった(今は違う。1人も誰かと過ごすのもどちらもいい)。つまり隠遁生活をしたかった。1人山籠りが理想だった。

 

でも色々あって、それが実行できる条件になく、ある程度見せかけだけは社会に馴染みつつ、徐々に理想的環境を用意しようとしていた。その理想的環境に向けて何をしていたかと言えば、貯金であるw

 

働いては、貯金をし、休日は1人で山に居る、というパターンを当時は繰り返していた。極力人の誘いには乗らなかった。貯金をして何がしたかったかというと、私は大家さんになりたかったのだw

 

働かずとも収入があって、見せかけだけは人として暮らしを送っているように見える、これが大事だった。そういう条件を構築して、好きなだけ、1人で居るつもりでいた。

 

が、その構築過程も途中で息切れした。お金を貯めるだけに働いて、働いている間も人の自我のエネルギーでボロボロになり、どんどん疲弊した。

 

私の理想条件を叶えるルートを、構築し直す必要があった。

 

まずは、より楽な環境で働くこと。そして、大家さんになるには年数がかかりすぎると踏んだので、次に浮かんだ理想条件が、目覚めた私をも理解してくれる、適度に放っておいてくれる、心地よい誰かに養われることだった。結婚を通して隠遁しようという目論見だ。

 

そうこうしていくつか職場を転々としているうちに、長く働けそうな職場に当たった。業務内容も私に合っていたし、雇い主も職場の人間も、申し分なかった。これならずっと働けるぞ、と思っていた矢先、漫画のような展開でその会社が経営不振で潰れることになった。さすがにポカンとなった。

 

が、その頃同時に、目覚めた私をも理解する菩薩のような彼氏ができていたので(私にはもう自我から生まれる恋愛感情というものがありませんとかストレートに話しても、それでもいいですよと言ってくださったw)、すぐに彼と暮らす事になった。私が一方的に頼み込んだ訳ではなく、話し合って、私の貯金でアパートを借り、彼がその後の暮らしを面倒みてくれることになった。私はほぼ隠遁者だし、最低限の生活費以外は出費を出さなかったので充分に暮らせた。

 

その暮らしのまま一年が経った時入籍し、私は約二年間ただ家事と瞑想と自分へのエネルギーワークに明け暮れた。そこは東京にあるアパートであったが、誰も知り合いが居ない土地でとても気楽だった。

 

目覚めたあとの社会での疲弊が癒えた頃、Twitterで悟りの話を誰に聞かせるでもなくつぶやいていたら、それを読んでくださっていた方々にセッションをして欲しいとお願いされるようになり、自然と悟りについて伝えるおしごとをする人になった。あれから6年が経ったが、その途中で共に活動してゆく相方にも出会い。なう、だ。

 

ちなみに、悟ったらみんな隠遁者みたいになるかといえばそうではない。先にお伝えしたとおり、それは当時の私にとって、心地の良い状態であったということで、私のセッションを通して悟った方の中には仕事が好きで会社を経営されてる方等もおりますので、悟り=世捨て人 ということでないのは補足しておきたいことです。

 

 人は幸せになって良いのです。その為に内的探求をし、 自我から生じる様々な思考感情から解放されると同時に、遠慮なくご自身にとっての楽を選択、または創造して行ってほしいです。

 

ちなみに今では旦那さんも様々な観念から解放され、自由に暮らしています。共に活動している相方も。私の母も。

 

ハートから幸せエネルギーが漏れ出ているまま、明日の(今日の)おしごとにそなえ眠ることにします。あなたの宇宙(現実)もまた、幸せでありますように*・゚゚・*:.。..。.:*

 

今日も読んでくださってありがとうございます。

 

 

最近読んだ本

この本、すごい。

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私はよくドライブをする。ドライブ中も無心である事が多いので、移動しても移動しても、実のところあまりリアルな感覚はないのだが、それでも景色が流れ行くのを見るのが好きだ。

 

ドライブをする時も、今私はどこへ行ったらより満ちる感じがするか、というエネルギーで選択する事が多い。行く前に行った先の自分のエネルギーを少し感じてみる。少し、というのがポイントだ。ダイレクトに感じてしまったら、行った先での体験を行く前から意識の中で体験してしまって、行った時にはもう、体験が半分くらい色あせてしまうから。知ってる事を改めて物理体で体験するだけ、って感じになる。

 

それでは面白くないから、私はこれからする体験の多くを知らないよう、地球時間の2008年に先が見える能力の大半を意図的に閉じてしまった。今なら上手にその能力も使えそうだから、今一度じわじわ開くようなエネルギーワークも時折している。

 

さてそんな前フリを経て、どこに行ったら満ちる感じがするかを少し感じたのち、先日夜のドライブで行った先は24時まで開いている本屋だった。

 

覚醒してからというもの、あまり本を読み切った事がない。読んでいる途中で興味が無くなったり、またはこれはこの著者の宇宙の話であって、私の宇宙とは少し感覚が異なる(間違いという意味ではなく)、このページの周波数で書かれてるものは入ってくるが、それ以外は目で追っても追っても入らない。つまり今私に必要ないものだ、と理解する。私の宇宙の気づきは私で知るしかない、という所に大体は落ち着いてしまって、読み切らないのだ。努力して読めるものではない。サイズの合わない靴がどうやっても履けないのと同じようなものだから。良いとか悪いとか正しい間違いではない、ただそういう事なんだ。

 

それでも、ごく稀にヒットする本に出会う。先日のドライブで行った書店に冒頭の写真で載せた本があったのだが、この本はごく稀にヒットする本の中の1つになった。

 

私がこれまで瞑想や日常の気づきで見てきた多次元感覚のほとんどが書かれていた(2割くらいは知らない事も書いてあった)。サイズの合う場所にスッポリ何かがはまった時のような気持ち良さを感じた。私は多角的に物事を観ていくことは得意とするが、それを理論的に説明できるスキルはここまでない。

 

ただ、こういった気づきを促すエネルギーワークと、気づきを妨げる観念を解く対話ができれば今は充分だと感じてる側面もある。

 

でも時々思う。沢山の気づきをブログやツイッター等の言葉で伝えるにはこの物理体では限界があるなって。それは決してネガティヴな意味ではなくて、中立な意味合い。膨大なデータを落とし込むのに構造や容量が足りないマシーンを見るような気持ち(笑)。

 

でもスマフォにはスマフォの良さがあって、黒電話には黒電話の愛らしさがある、くらいには自分を愛している(笑)。黒電話のが温かみがあって好きって人もいるから、まぁいいだろう。いやでも黒電話は言い過ぎかな。じゃあせめてガラケーで。‥えっと、何の話してるんだっけ。

 

(たまにこういう事をブログで書いたり話したりすると、黒電話なくぅちゃんが大好きですよ、的な事を本気で言われたりするが、うんゴメン。それボケたとこだから真剣にフォローされてもなんも言えない。って内心なってる芸人心をここに追記しとく。そしていつもありがとう。てか芸人てなに。私芸人じゃない。)

 

と言うわけで、覚醒からの多次元、物理学等に通じてらっしゃる方には読みやすい本かも知れません。これも合う合わないやタイミング等あるかと思われますが、ご紹介したいなと思いました。

 

本日も読んでくださってありがとうございます。

 

 

努力して
なにかを成してゆくのと

好きなことしてたら
自然になにかが成されてゆくのと

 

何かが成される
何かができるっていう
結果は同じだからね

 

どちらでも好きな道を
選んだらいいよ
ここはそういう星だ

 

すべてが自由だ

 

でも
努力したら偉いとか
努力したら認められるとか

努力しないと
愛されないっていう思いが
根底に隠れてたら
何やっても
何を成しても
結局不足感はつきまとうからね

 

何をしても
しなくても
自分を愛する事ができたなら


努力しないと愛されない
っていう思い込みが消えて
自然と努力とかそこに付きまとう我慢とか
そんなものも消えていって

 

残るのは
ただ純粋に存在として在るってことを
喜んだり
くつろいだりするようになると思う

 

存在にくつろぐようになると
自分に好きなことを選ぶ自由を
与えられるようになる

 

好きなことをしてたら
自然に何かが成されてゆく

 

どんな道でもいいよ


どんな道でもいいけれど
自分を許して愛せる者は
誰かをも許し愛せるようになる

 

なんでもいいよ
どんなあなたでもいい

 

心の投影が世界だ
あなたがあなたに優しいとき
世界は優しい

宇宙

宇宙の次元が開くっていうのは、様々な関わりの中で起こるエネルギーのやり取りが重要だね。だからと言っていつもいつも誰かと居る必要もないけれど。

 

たった独りになってみて、そこに生まれる様々な思考感情感覚を観察するのもそこでしか観れないなにかがあるし、だからと言って何年も何年も独りで居てもそこから開く宇宙に限界はあるだろうし。

 

何事においても呼吸のようなものだよ。片方だけではバランスが悪い。吸いっぱなしの人間も吐きっぱなしの人間もいないでしょう。人間の在り方そのものが、宇宙が、そういう事なんだよね。

 

誰かと関わって気づく事もある。独りになって気づく事もある。人間同士の関わりを呼吸に例えたけれど、暮らしのすべてがそうだよね。

 

眠りすぎても眠らなすぎても、食べ過ぎても食べなさすぎても、身体的にバランスが悪いでしょう。身体的な過ごし方のバランスが悪ければ精神のバランスにも関わるし。

 

(これを読んでバランスに気をつけよう、と気をつけすぎたらそれもバランスが悪い(笑)気をつけすぎることは緊張だから。)

 

ありとあらゆる事がそういったバランスに在る。(その二極を超えて不眠不食を表現する宇宙(人)もあるけれど、今度はその宇宙においてのバランスを知ることになるだろうね。)

 

全ての中間を常に保とうとしながら二極を体験する事により、宇宙っていうのは拡張するんだ。宇宙っていうのは内なる宇宙、外なる宇宙、内外のない空であるそれ、全てを差すよ。

 

人間は人間にとっての良き形を保ちたがる意向にあるけど、二極を揺れては中間(空)に戻るという揺らぎが自然な形なんだよね。

 

ひとつの状態を保とうとしなくていいわけ。
ひとつの何かに固着することが緊張であり、心も身体も固めてゆくよ。まぁ、固めてみる体験すら、二極の揺らぎなのだけど。

 

そうして、二極を揺れては中間(空)に戻るという揺らぎの全容を“良し”とする様(受け入れる様)を、時に精神世界の言葉上では“宇宙に委ねる”って表現になる。

 

だから、宇宙に委ねてれば“普遍の良き状態(人間にとっての都合の良い状態)に到達して、それを更には保てるなんて思い込みがあるなら、その思いはリセットしてもいいだろうね。

 

地球の全てを見渡してみると、片時も同じものはないよ。例え同じように見えたとしたら、それは宇宙の揺らぎ、変化が非常にゆっくりなだけだ。

 

 

宇宙は呼吸だ。
そんな表現を以前にもしたと思う。


でもそこからまた100周くらい回って、今また宇宙は呼吸のようなものだって表現をしてる。

 

人間て面白いよ。何回も何回も沢山のことに気づいて、気づきを拡張するからね。

 

でもそれこそ宇宙の表現だよ。

 

はじめに宇宙が宇宙に気づいた時から、そうして拡張を続けてるんだ。

幸せとは

私は約5年半セッションとか瞑想会とか

時折お話し会とか開かせて頂いて来たわけだけれど

この活動を通して沢山の人に出会ったよ

敢えて言葉を選ばずに言えば

(言葉に囚われるなという意を込めて)

 

金持ちもそうでない人も

職がある人もない人も

トップクラスの学歴を持った人も

そうでない人も

芸能人のような容姿の人も

ごく平凡な人も

運動好きも運動嫌いも

ある分野での世界的に有名な人も

友人のいる人もいない人も

恋人のいる人もいない人も

家族のいる人もいない人も

健康な人もそうでない人も

色んな人に出会ったよ

 

こうして並べるとさ

幸せって物理的な条件じゃないってことに

気づかない?

 

もっと金があれば

もっと地位があれば

もっと美しければ

もっと友人がいれば

もっと

もっと

 

何かを得れば自分は幸せになるはずってさ

みんな思って生きて来たんだよね

 

でも

追い求めて

時に達成して

時に失敗して

色んな気持ちを味わってさ

 

失敗したら自分や誰かを責めてみたり

達成したらしたでそれを維持しようとしたり

またはもっともっとと達成しようとしたり

どっちにしたっていつも心が揺れて

 

楽もあれば苦もあって

振り返れば大体が苦のような気もして

人生で何回かもうしんじゃいたいとか思ってさ

 

そうやって精神世界に目を向けはじめてさ

今こうしてこのブログを読んでくれてるんだよね

 

 

幸せってさ心の投影でしかないよ

どう見てるかでしかないよ

更にはその心の動きが止んで

静寂だけしかないその時にさ

ああ 現実っていうのは

世界っていうのは

全部認識して意味を付けた時にだけ在るんだなって

最初からずぅっとそうだったんだなって

思い出すとも

知るとも

言い表しがたい“それ”だけど

知るよ

 

でさ

そうして色々な事に囚われなくなったら

自由に選ぶ安心があるよ

失う恐れや執着して生じる苦に

飲まれない状態を知ればさ

何を選んでも大丈夫だなぁ

って知るよ

仮に暮らしを送る内に

また飲まれることがあっても

そこから離れる方法を知っていれば

また離れられる

 

地球上の多くの聖者や覚者がね

悟ったあとも何度も心が揺れては

心や身体を観察して

更に更に深く悟って行ったんだ

 

それくらい

世界はリアルだ

でも

観察しだいで

過ごし方しだいで

心の動きに翻弄される事は

どんどん減るよ

心の動きに翻弄されないとき

そこに普遍の静寂と安堵があるよ