悟りは 言葉にはならない
この数年の間に出会ったあるヨーガ行者がいる。
何十年とハタヨーガを実践し、稀少な虹の体(ゴールドドラゴンボディ)に至った行者だ。
彼は話しの中で言っていた。
「人間は肉体の死の瞬間、人生を走馬灯のように見ると言います」
悟りと言っても、この世の認識の世界においては、その段階も様々なのではあるが、
私は、肉体を持ち合わせながら、一度死んでしまった。
悟る直前、私は人生を走馬灯のように見た。ほんとうに、人は死ぬときに人生が走馬灯のように見える。
肉体が生まれてから、今の今までコマ送りに人生のすべての瞬間を見た後、
すべての自我が死んでしまった。
ほんとうにすべてだった。
そこには
分離のない
宇宙の源のエネルギーだけが
ただ、あった。
それはただ愛(空)だった。
誰も、個人は存在しなかった。
言葉もでない。
動こうとする、動機もない。
愛だった。
それから数ヶ月をかけて、この体を通し、この体が歩んだ人生がどんな風だったかを努めて思い出し、
初めはすべての認識が持てなかったので、ひとつひとつの名称から覚えた。例えばコップをコップと見ることができなかった。家族を、家族として認識することができなかった。
言葉を知らない赤子同然だった。
その体をこの世に存続させたのは、例えるならお釈迦様の話しで言うところの梵天だった。
個人的な意識はなくとも、梵天の、宇宙の叡智が体を生きた。