すべてが、それでいい
精神世界もスピリチュアルも、しばしの間肉体を通して体験される世界が、満ちたものであるようにとのきっかけだ。
— くぅ。 (@kuujigen) 2016年8月14日
散々悟りについて語っていながら、どういったことだろうと感じる方も中にはいらっしゃるかも知れない。
私は悟りを、良いとも悪いとも言っていない。悟った方が良いとも悪いとも言っていない。
物理的な次元において、万人にとって良きことというのは存在しない。万人にとって悪いことというのも存在しない。
先進国の社会の教えは、答えを導き出すこと、より良くなること、到達することがベースだから、その刷り込みにより、人は○○の方が良いのか、悪いのかを常に導き出そうとする。悟った方が良いのかそうでないのかと言う思考に発展する。
すべてにおいて“こうでなければならない”はないのだ。
昔の覚者(悟った人を指す言葉だが、正確には悟りとは個人を超えた意識のため、覚者という誰かを指す言葉もまた方便なのである)は、自我、観念、エゴを汚れだと言った。
時代背景により、そのように強い表現で伝えてゆかなければ伝わらない人々の意識が存在したことが一つの理由だろうと感じる。
もしくは悟りの段階が、自我を否定する意識が残っていた段階であったか。
源のみを悟ることを、非二元、または一元意識と表現することもあるが、その先にまだ悟りはある。
宇宙の源であるその一つのエネルギーは、なぜこの認識幻想の世界を生んだのか、それを体感する悟りの段階がある。
(何度も言うがこの悟りも良いとか悪いとかなにかより勝っているとかそういったことではない)
ここを悟ると、観念すら、エゴすら、源である神であるそれが知りたかったのだ。と、理屈を超えたところで分かる。
こうなると、別にだから悟らんでもええわ。と、言う視点に入る。
だがしかし、パラドックスだ。
悟らんでもいい、があるなら、悟ってもいいわけだ。
私は非二元から更に悟りが深まると並行して、悟りを伝えるのを何度か止めようと思ったことがある。
その度に、それは悟ったからそう思うだけではありませんか、聞かせてください、という御言葉を誰かから頂く。
何回かそれが続いたことと、それを否定する自我がないこと、なにをしていてもしなくとも“それでいい”という全肯定の視点から、残るものだけが残って、今も悟りとその意識で世を生きる智慧について伝え続けている。