多次元意識
一昨日友人に会うために京都へ向かい、一泊して帰ってきた。
道中、つくづく私は体感はあっても精神世界的な用語には疎いなと俯瞰していた。疎いというのは良くも悪くもなくて、ただそれにより3次元の中で起こる誤解について観察していた。
言葉というのは、同じ国の人間で同じ言葉を使っていても、同じ認識をしているとは限らない。(更に細かくいえば“同じ理解”というのは存在しない。ボディが違えば理解するフィルターが違うから。)
とくに形のないものは伝えた気になっても伝わることなんてない。
あなたは丸って形を、丸を見たことない人に言葉だけで伝えられるだろうか。
甘いという感覚を、甘いを知らない人に言葉だけで伝えられるだろうか。
精神世界用語というのは、私にとってはそれらと同じだ。
だから、私にとっては大切なのは言葉ではなくて、その奥にあるもの。
何年も私のツイートを読んでくださっている方はご存知の方も多くいらっしゃると思うが、私の言葉に一貫性はない。
悟りっていうときもあるし目覚めだ覚醒だというときもあるし、更にはそれらも認識する意識がなければ無い、なんて言ったりする。
私を浅くしかご存知ない方には誤解を招く場合がある。目覚めと覚醒と悟りは違うって“認識してる人”には私は決して理解されることはない。
サマディとか真我とか神我とか無我とか大我とか‥
その分類が意識上にない私は、分類で見る人からは理解されない。
そして更には色々な精神世界の用語を理解している方々同士のやり取りを見ていても、ひとつひとつに対する理解が違うから、結局“同じものを理解する”ということを人が求めるのは不毛なんだ。
解脱って言葉ひとつにしても、語ってる先人はみんな少しずつ、時に大きくその認識は違う。
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でね、理解されないことは別に現段階ではどうでもよいことなのだが、
そう言った“3次元だから起こる誤解”とか、“3次元の言葉があるからこそ”各々の中に認識のズレが生じて、それが体験というものを展開していく仕組みをじっと観ていた。
言葉とは不毛であると同時に、
言葉があるから体験が色濃くある。
3次元すごいなぁああ
って。
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そんな長い前フリを自らぶった切って、先ほどの瞑想の中で観て来た多次元を、3次元の!言葉にしてみました。ツイートしようと書いていたら長くなったのでブログにしてみた。
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5次元、またはそれ以上の次元においてすべてのパラレルワールドはすでに起こっていて、けれど3次元の視点におさまっているときには、パラレルワールドの中のひとつの現実のみを体験するの。体験とは‥つまりパラレルワールドのチョイスということになるけれど、今発している精神的、物理的な周波数で毎瞬間無意識にそれをチョイスしているんだ。目には見えなくても今も無数のパラレルを行き来してる。
でね、3次元の行動が、他の次元にも影響を与えていて、すべては連結連動しているんだよ。だから、3次元の行動でパラレルワールドの数が増える(増えるっていうのは展開の組み合わせが増えるの意)。
ギャラクシーレベルのチャクラが発動すれば教わった知識ではなくこれらを理解することになるけれど、それらのチャクラが発動する以前に、通過点として目覚めや悟り覚醒と呼ばれるような領域を体験する。
昔からポツリポツリは存在していたし、近年はもっと増えてきたけれど、多次元意識を失わずに成長していく子どももいる。そういう子たちには目覚めだ悟りだ覚醒だというものがはっきり体感できない場合もあるよ。なぜならすでにその領域の理解は意識の中に含まれているからね。ただそれらの認識の濃度はその子の個性により異なるけれど、ね。
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特にまとめの言葉もありませんが、今日はこれで。
ありがとう。