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死の体験とその後

体験の情報と言うのは、役に立つ場合とそうでない場合がある。

それはこの世で視点を持った時点で陰陽の両極が発生するから自然な事である。

何を読んでも体験に囚われてはいけない。

体験談は体験した事に対する認識の合致(答え合わせと言う比喩でもいい)の為に用いるほどで充分だ。

 

と、いつものような前置きから早速体験談を書くことにする。

 

 

先日、ある文献を見つけた。

著者プロフィールの無い、誰が書いたかも分からない、たった2ページの中に私の記憶が呼び起こされた。

(もはやしつこいのでそれを体験した私もいないですけどねって一文は省く事にする。いや、カッコ内に書いちゃったね。うん。)

 

私は悟りに至る過程で自分の人生を走馬灯のように見た後に全ての自我が死んだという体験をしているが、その前に肉体としての死も体験している。

 

その過程をその文献は完璧なまでに描写していた。

 

以下はその引用である。

 

“◎死の瞬間

 まず、死の瞬間から。死の直前には、感覚器官が働かなくなってしまう。よくテレビなんかの臨終シーンで、明るいのに「暗いから電気をつけて」などという ことがある。あれは本当だ。音が聞こえなくなることから始まって、何も見えなくなってしまう。そして、嗅覚も味覚も触覚も次々と衰えていってしまうのだ。
 それから、意外なことに、まだ生きているうちから身体を構成している要素が分解し始める。分解されて、“ 自性(じしょう)” に還元されていく。自性とは、この世を構成している物質的な根源で“ 地”“ 水”“ 火”“ 風” の四つのエレメントからできている。
 初めに、肉体が地のエレメントに分解される。このときは、自分の体がぶよぶよになるというか、何となく変な感じだ。そして、それを感じているのは、今までの自分ではない。もう一人の自分――、つまり魂がそれを感じているのだ。また、この過程では、黒と黄色の混ざったような色を見ることができる。
 次に、血液や体液が水のエレメントに分解される。このときには、鼻汁が出たり体がむくんだりする。血液の流れもこのときに止まってしまうのだ。ヴィジョンとしては、「水に映る白い月」というイメージの色がパッ、パッ、パッときらめいている。
 さて、今度は、体温が火のエレメントに分解されていく番だ。下腹部から冷えてきて、その冷たさは背中を伝わって全身に広がっていく。体が冷たくなって、 動きがぎこちない。硬直しているのだろう。自分の体がまるで鉄になってしまったみたいだ。また、この過程では朱色が見え続けている。
 最後に、息が風のエレメントに分解される。このときは、呼吸しづらくなってしまって、息苦しい。呼吸したい。呼吸して生き続けたい。そういう生命に対する抑え難い執着が、一気に表面化する。愛している人と別れるのは嫌だ。死ぬのは怖い! すでに、肉体的な痛みや苦痛はないが、死ぬことに対するひどい恐怖を感じるのは決して避けられない。わたしはそれを経験した。嫌だと思った。でも、わたしの気持ちなどにはお構いなしに、死ぬための手続きは進んでいってしまった。魂は、青緑色を見ている。呼吸が少しせわしくなったかと思うと、最期に長い息を吐き出す。……そして、すべてが終了した。こうやってわたしは死んだ。”
 
                                     

悟りの過程とはみんなこうであると思ってはならない。そんなのは概念だ。

ただ内的探求も深まればふいにこういった体験が起る場合がある。

しかし8~9年あまりの歳月を経て、この体験が書かれているものを私は初めて読んだ。

 

私は悟り後、しばらく肉体の一切の煩悩が無かった。

食欲も、味覚も、睡眠欲も、性欲も無かった。

悟り後初めて口にしたものは、まるで味の無い砂を噛むような感覚であった。

舌に物体が触れる感覚はかろうじてあったが、味を感じる感覚器官が分解されていた。

 

そんなことを訴えたところで理解されるはずもなく、仕方が無いので私は味覚を再構成した。再構成は意図するだけで充分だった。

 

次に、空腹が発生しない代わりに、満腹感を感じることも無かった。

悟り前、食は細い方であったが無限に食べられてしまう。これはこれで人間としては訝しがられることは明白であったので、ある程度のところで満腹感を感じるようこれも意図した。

 

全くおかしな話しではあるが、私は一般的な人間に見えるようにこの身を再構築するところから2008年のその歳がはじまったのだ。人間は、前例がいくつか無い限り一般的でない人間の話しは中々信用しないのを知っていたからだ。知っていたというかそういった宇宙の智慧が自然にこの身を存続したのだ。とりあえず病院送りにならないように気をつける必要があった。送られたところでこの身を通しての世界は至福だったのだが、誤解していく周囲の苦しみが先に見えていた。

 

で、まぁこれがくぅちゃんのバカかわいいところ(自分で言ってみる)ではあるが、再構築に一生懸命すぎて数年かけて一部の意識が飲まれていった(宇宙の流れとしてはこれすら必然である)。地球の歩み方を取り入れすぎてしまった。例えば人間は無限の体力があるとそれはそれでどうなってるんだってなるから、ある程度のところで疲れようとか再構築してしまい疲れるし、地球では暮らしの維持にお金がまだ必要らしいと認識し始めてバイトに出るも、中々人間の自我の動きに合わせて返事をすることができない。そして自我の世界で人っぽくする演技をし続けたら、結局それが段々苦になった。

 

いい感じに自我が構築できた頃、思った。(ここが)インドとかならよかった!

こんな事しなくても無我の境地に入ってることが許されて、悟りの話しを聞きたい人たちがいて、取り繕わなくてもいい…。(だが一方でこの身がインドに無い理由と言うか、その宇宙の流れも悟っていた。)

 

この頃は悟りの話をしても友達に普通になってほしいと心配されるだけだった。もしくは真理を直球で話すと、時に相手の観念を刺激する事になり、怒られたりした。

 

私は日々の最低限の仕事をすると、いつも一人山の中へ行きそこで何時間も過ごした。自然のエネルギーは静かでよかった。

 

だが世界を創造するのもお手の物になっていたので、この社会に居ながらにしてこの身を無理なく生かす場を創造したのだ。今はそれが全て物理世界で具現化したので、穏やかに暮らしている。

 

が、この穏やかな暮らしを始めた頃に取り掛かるべき事があった。

構築した自我をまた解いていく事だ。

物質体の機能の構築、自我の構築には注意が必要だ。

なぜなら創造したものは再び体験しきらなければ終わらないし、構築したものを俯瞰している余裕が日々の流れの中にないと、人はまたその自我に少なからず飲まれてしまう場合がある。

 

が、再構築と体験とまた解いていく作業の中で、意識は最初の悟りより拡張する。

智慧も拡がる。だから全ての流れは無駄な事などない。宇宙に無駄は無い。

 

 

さて、肉体の感覚器官と自我の死を経たときに、実は私は一時的に肉体の無いハイヤーセルフになると言う体験をしている。このことはまたいつか書くかお話しする機会があればその時に。

 

 

長々と今日も読んでくださってありがとう。

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