ネガティブもポジティブもない

起きていることは

ただただ中立であり

意味と言うのは個々の

見方によってつけられただけのもの

 

ネガティブな解釈も

ポジティブな解釈も

見方のひとつ

 

起きていること自体はそのどちらでもない

そのどちらでもない視点のとき

意味付けをする個が極めて薄いとき

全体性の流れの中で

すべてをただありのままに観るでしょう

 

その意識状態である時

感想と言うのは消えてしまう

ありのままに観るとは

同時に言葉が消えること

 

この社会では言葉なくして暮らすことは

不可能に近いから

深く深く目覚めた場合に

取られる手段は

隠遁するか

社会にある程度合わせて

社会の言葉を使って交流し続けるか

そしてそれもまた

全体性の流れの中で起こるでしょう

 

 

 

 

ここまで書いたら穏やかな至福が( ˘ω˘).。.:*・°

さっきまで瞑想でシナプスと多次元の連鎖を観察していました。

便宜上今も自分を指す場合には“私”と言いますけれども、その私とは多次元のエネルギー連鎖で成り立っています。

私は私の(=宇宙)構成を観察するときとても満ちたります。

源がどのように多次元を展開して行くのかを、観ることが、身体がある上での満ちる瞬間のひとつです。

宇宙とは多次元とはどこか遠い所にあるものではなく、今この瞬間にすべてが同時に表れています.。.:*・°

 

 

 

だからなんだということも何もないのですが

手が書いたから記事をあっぷするよ( ˘ω˘).。.:*・°