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涅槃

昨年12月辺りから、瞑想会等の主だった表向きの活動は自然と休止状態だった。

 

年が明けて2月のあたま、意図してそうした訳ではないが、私はこの人生において3度目の涅槃入りを果たしそうになっていた。1度目は最初の悟りで、2度目は3〜4年前に、そして今回だ。

 

【涅槃】ねはん
一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦(しゃか)や聖者の死。入滅。 「―に入る」

 

朝、至福に溶けて、頭頂から抜けて行ってしまう。

 

抜けきれば、この肉体を過ごすのは終わりである。

 

抜けてゆく最中に、毎回選択がある。

 

抜け切るのか、物理次元に残るのか。

 

ふと、残される家族や友人が浮かんだ。

 

そして、この肉体を通して観ることのできる多次元を、せっかくだからもう少し観ていこう、と浮かんだ。

 

これらが浮かぶとき私という個人が思い感じるものとは違う。ただ、そのように浮かぶ。

 

肉体を通し観察を続ければまだ気づけることはあるだろう。好奇心に似た、しかしもっと微細なエネルギーで、私は頭頂から抜けて半分まで行ったところで引き返した。

 

それに、肉体を脱いでの入滅は何回か体験して知ってるから、どうせなら虹の体で物理次元に好き勝手に出たり消えたりが自在になるなら面白い、とは感じる。

 

しかしそこにも執着がないから、どちらでも良いとも思う。

 

涅槃を説明する引用文に、一切の煩悩から解脱したー とあるが、私の感覚から言えば肉体を微細に観察してゆくと、肉体自体が多次元の煩悩で営まれているので、説明とはいつの日も説明しきれないものだな、と思う。ただ、個人的な欲から離れているという意味では、煩悩がない、とは言える。

 

多次元の煩悩とは、多角的すぎて文字に起こすスキルが追いつかないのだが、それは全宇宙の連鎖のエネルギーという表現でもいい。

 

一口に悟りだ目覚めだ気づきだと言っても、それらは無限のように深まり、何段階にも気づける。

 

そして、気づきを含めた幻想だ。

 

なにも掴むことなく、ただ気づきを流していけばいい。

 

川の水のように絶え間なく、流れればいい。

 

 

 

 

 

 

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