意識の可動域

‪時々、数ある悟りの話の中でもご自身の体験を綴っている方はすくないので、興味深く読ませてもらっています、というお声をいただく事がある。‬

 

‪私は人は自然と気づく力があるのを信頼しているから、そして何より私は2008年に悟った後の暮らしが手探り過ぎて、先人たちの悟り後の人生がどうなったかの方を知りたかったから、体験を書いているのもある。ただの自動手記の時もある。‬ただ、あるがままでいて、見たい人が見たいように見て、何かを気づくタイミングで、気づくだけだ、という委ねた視点でブログを書く。普段はもう、それすら考えていない。野花や草木がそこに咲くように、ただ私は私で在るだけだ。

 

‪無我の境地に入ったら、ずっとそのままなのか?っていう疑問を、現代では晴らしておかないと、悟り後の俗世に居ながらにして悟った多くの人にとって苦しみになってしまうだろう。

 

‪ずっと無我でいるかどうかっていうのは、その後の環境によりますよ。無我じゃまず、対話ができないのだから、仮にできたとしても一般の仕事は無理です。人里離れた1人でいられる環境でないと、ずっと無我ということはないです。

 

‪俗世にいる場合には、意識はグラデーションのように、可動域が必要になります。つまり、あなたと私が居ると認識できる意識と、居ない意識の使い分けです。‬

 

そこに混乱しなくなった時、どんな意識状態でも良しなんだと腑に落ちている時、それは何より安らかでしょう。

 

対象無き空も、空から形となったすべても、すべて良い。一貫して伝えたいのはこれに尽きます。

 

珍しく本日2回目の更新でした。

 

 

 

ありがとう。