真我からの個として

言葉というもの自体が

真我からの分離を創造するツールなのだ

りんご

と口にした瞬間

りんごとそれ以外が表れる

ひとつだけを表現することが

言葉のある世界ではできない

ひとつ口にすれば

必ず“それ以外”が同時に創造される

 

全ては本来一続きのもので

何も分かれてはいない

全く分かれてはいないのだ

 

だから真我に個人が溶け去るとき

そこに言葉は生じない

聖なる沈黙

全てを包括する沈黙

 

沈黙の中に思考が生じないのは

思考自体が言葉で成っているからだ

言葉という分離は真我に溶け去る

言葉が無いとき思考もない

 

 

しかしながら

現代社会に身を置きながら

真我に溶け去った状態で

どのように 暮らしていくのかが

真我覚醒後には大切になってくると思う

真我から見れば全てが幻想である

幻想を幻想と知りながら如何に過ごすのか

それが大切になってくる

 

言葉というツールを使い

認識し 認識を重ねて あらゆる角度から意味づけ

人は自ら意味をつけて来たことに 心揺さぶられ

翻弄されてきたけれど

それが 全て幻想である と見抜きながら

この社会の幻想を過ごすという

そういう矛盾を 真我覚醒だけでは

受け入れがたい 意識状態になることがある

誰が何を口にしても 幻想に過ぎず

そこに付き合うことの無意味さに

疲弊してしまうから

 

 

しかし 真我覚醒の後に来る覚醒があることを

知って置いて欲しい

この幻想世界を そもそも生んだのも 真我である

そう気づくとき 幻想体験を 深く肯定するから

世界は真我の表れだ

 

真我から生じた人としてのその個を

どう在ってもいい

どう表現してもいい

どんな環境にいてもいい

ただ 選べばいい

 

真我から表れた

真の個を

ただ 体験する

それ以上でも

それ以下でもなく

それは全てだ