探究

人間は執着と愛情を混同してしまうことがある。

 
内的探究を深めて行くと執着は薄らいでゆくが、その時人は好きだった人や好きだったことへの関心が無くなるような感じがして、寂しく思い、好きという気持ちにしがみつきたくなることがあるかもしれない。

 
しかしこの時、執着が苦だということは充分に分かっているから、どんなにもがいても結局は好きという傾きも嫌いという傾きもない、ニュートラルさへと帰還する。

 
目覚めとは、興味関心を失う事ではなく、興味関心の対象と自分との間に距離が無くなることだ。見ていた対象と自分は溶け去り、“ただ在るそれ”が現れる。自他に対する反応は完全に幻想だと知る。

 
しかしここで終わりではない。ニュートラルな視点でありながら、尚もある物質体を通して、幻想と知りながら幻想を体験するフェーズに入る。最初はぎこちないだろう。以前と感覚が違うから。そのぎこちなさの中で生じる心の摩擦を再び観察して行く。

 
幻想なのに、体験しなければならない、そんな抵抗が一度や二度生じるかも知れない。しかし、その抵抗すら幻想であると分かっているから、この辺りで気持ちのやり場を失うことがある。が、それでも尚、観察を続けていると、真我から生じた幻想を深く肯定する目覚めがやってくる。真我と幻想の間に、距離がなくなるのだ。

 
この物質世界での体験をより気楽に体験できる。目覚めとは覚醒とは悟りとは、無思考の静寂も、人間としての表れの全ても良しとするものだ。それは理屈ではない。思考で分かるものではない。思考を超えてただそう在るものだ。

 
真我に意識が溶けている配分が多いと、確かに様々なことに無反応である。何も生じていないからだ。無思考であり、静寂であり、時に至福だ。

 
しかし先に書いたように、一方で人間としての表れの全ても良しとして、個人意識を体験することもできる。真我から再構築した個人意識だ。個人であり同時に全体である意識。真我と個人を同時に体感している意識。

 

 
喜怒哀楽はエネルギーであり、体験のツールであり、どんな感情に良し悪しもないと知る時、瞬間を楽しみ、瞬間を純粋に苦しんでみることができる。苦しみを肯定しながら苦しむということがある。ちゃんと苦しんであげるとき、またそこにアルケミーが起きて新たな私の一面が開く。そしてまたハートは開くのだ。この時苦しみとは問題ではなくなる。

 
こういう意識の時、純粋に、本当に純粋に、対象を愛でることもできる。執着なく、ただ在る存在を愛でることもできる。

 
愛でることができてもできなくても問題はないが、人間として物質体がある時にだけ体験できる素晴らしい体験のひとつだと思う。

 

 
余談ではあるけれど、昨年暮れに小型犬を家族に迎えた。目覚めてから犬と共に暮らすのは初めてだが、存在を愛でるという意味では人生の中で今が一番純粋に体験できている。

 
執着を交えた濃い感情ではないが、ただ在る存在が素晴らしく、時に感謝が溢れる。添い寝してるだけで毎日爆発的にハートが開くので、動物が発しているエネルギーは凄いなと思う。

 
同時に犬と私という相対的な認識が真我に溶けている時もある。こういう多様性を体験している。

 

 
また、最近あるきっかけがあって、長年乗っていた軽自動車から外国車に乗り換えた。非常に状態の良いものであるが、巡り合わせで軽自動車くらいの価格で購入したもの。

 
納車して翌々日くらいに大雨だった。視界が悪いと同時に夜であったこと、慣れない車の大きさであったことが重なり、家の庭に駐車する際にホイールの側面を段差でガリガリと擦ってしまった。気に入って購入した車だが、全く気持ちは平坦で、静かなままだった。

 
昔の私なら色々な思考が巡ってしばらくガッカリしていただろうが、そういうことが一切ない。無執着というのは、まぁ、こういう時楽ではある。ただ起きたことを意味づけなく“ただ観る”、だけ。全ての物はいつかは朽ちる。それが遅いか早いかだけ。それが腑に落ちていれば後悔は生じようもない。しかし無執着と、大切にするしないは別であるから、この後駐車に慣れるまでは慎重さを持ったけれども。

 

 
度々口にすることだけれど、真我覚醒は決して特別な事ではなく、誰もの本質であるし、言葉では表し難いことでもあるし、また当たり前のことでもあるために、近年では中々snsに書く気持ちが起きないというのが正直なところで、そういう時私は何をしているのかというと、ただ日々の瞬間瞬間を、ただ味わっているだけなのだ。ふつうの、ふつうの人間として、ただ暮らしている。しかし同時に探究はもはや暮らしの一部なので、探究をしていない日もない、という。相変わらず真我からの物質、非物質についての探究をしている。

 
なので、なんというかsnsで人がご飯の写真をアップしているくらいの感覚で、私にとっては当たり前のこととして、探究や覚醒のことを今後も書いたり書かなかったりするのだと思う。


そしてそれが目に止まって、興味を持たれた方に直接お伝えできるひと時があって、そういう時間は理屈ではなく循環として素晴らしいな、ありがたいな、と感じている。

 
何のまとめもないけれど、覚醒と暮らしの話があったら10年前の私は読みたかったなぁと思い、今日は書ききってみた。

 
長々と読んでくださってありがとう。