無執着からの創造

伝える、という行為とは自他があるという前提の中でしか起こらないのだよね。だから、覚者は時に沈黙する。必要な時は勿論話をするけれども、無言以上に満ちた状態はないだろうと思う。無言の中に全てが在る。

 

そして地球時間でいうところの数年前には、今回のこの物質体でやるはずの事をある意味では全て終えてしまって、残りの人生は自由時間に任されている。選べることがたくさんあると同時に今が満ちていてもう充分だ。

 

何もしなくても穏やかな至福があって、全ては有っても無くてもよいが、強いて言うならこういう暮らしがいいなと思ってきたことは、全て物質世界に創造、具現化された。言うことがない。

 

しかし知って欲しいのは、具現化したものに対し執着がないこと、これが一番大切なことだ。“そこ”にしか至福はない。分かるだろうか?思考の介入しないところで、何にも執着せず、ただ瞬間を味わうのだ。

 

とはいえ、これまで何度もお伝えしてきたけれど真我覚醒しただけでは直ぐにそういう味わいはない。真我から生じた個は、ひとりひとり違う個性を有している。真我からもう一度個に気づいてあげること、個にあった環境や諸々の選択。選択し、構築したら、またそこで全ての執着を手放す。

 

真我か、個か、ではなくなる。

真我と個が同時に在るようになる。