真我からの知恵

真我から見れば全ては幻想だが、物質次元で過ごすには物質次元の扱い方、その知恵は必要だ。

 
例えば全ては幻想だけれども、火の扱い方は知っていた方がいいでしょう。火は火で良くも悪くもなく中立にただそう在る性質のものだけれど、扱い方によっては創造にも維持にも破壊にもなる。

 
精神探究が必要となるのは、人間は思考が優位になって自他に対するジャッジメントに縛られ過ぎて、自他のその存在の自由を奪っているからであって、思考自体はツールとしては悪くない。

 

(精神探究の必要性の中には更に言えば人間の根本的部分、生死に対する執着や恐れについて等も含まれるがここでは割愛)

 
火をどう扱おうか判断するのは思考だし、全て幻想だと完全に腑に落ちている状態、真我から思考や感情を使ってあげることは、それなりに大切なことだ。

 

火を例えにしたけれど、判断は日常に溢れている。社会で過ごすというのは判断の連続だ。

 
物質次元を扱う知恵すら真我に溶け去っていると、日常では少々バランスを欠いた状態になってしまうこともあるから、真我覚醒したら真我からどうその個体を在るか、という探究が始まる。

 
真我から見れば火も私もなく、全ては溶け去り、ひとつを超えたひとつだ。ひとつすら認識しないひとつだ。そこには自他もない。全ては統合されている。統合されているから、判断する対象がない。このように分離がないとき、静寂と満たされた状態がただそこに在る。そこから再び様々な場面で知恵を使ってゆく。思考に縛られていた状態から、思考はツールとして使うようになる。

 

探究の順次としては、先ずは真我覚醒を経て全ての認識が幻想だったと目覚め、

 
全て幻想だけれど、なぜ幻想が生じたのかを知り、

 
真我からその個体を物質次元で過ごす時、物質次元を扱う知恵を適切に使ってあげる、

 
ということになる。

探究

人間は執着と愛情を混同してしまうことがある。

 
内的探究を深めて行くと執着は薄らいでゆくが、その時人は好きだった人や好きだったことへの関心が無くなるような感じがして、寂しく思い、好きという気持ちにしがみつきたくなることがあるかもしれない。

 
しかしこの時、執着が苦だということは充分に分かっているから、どんなにもがいても結局は好きという傾きも嫌いという傾きもない、ニュートラルさへと帰還する。

 
目覚めとは、興味関心を失う事ではなく、興味関心の対象と自分との間に距離が無くなることだ。見ていた対象と自分は溶け去り、“ただ在るそれ”が現れる。自他に対する反応は完全に幻想だと知る。

 
しかしここで終わりではない。ニュートラルな視点でありながら、尚もある物質体を通して、幻想と知りながら幻想を体験するフェーズに入る。最初はぎこちないだろう。以前と感覚が違うから。そのぎこちなさの中で生じる心の摩擦を再び観察して行く。

 
幻想なのに、体験しなければならない、そんな抵抗が一度や二度生じるかも知れない。しかし、その抵抗すら幻想であると分かっているから、この辺りで気持ちのやり場を失うことがある。が、それでも尚、観察を続けていると、真我から生じた幻想を深く肯定する目覚めがやってくる。真我と幻想の間に、距離がなくなるのだ。

 
この物質世界での体験をより気楽に体験できる。目覚めとは覚醒とは悟りとは、無思考の静寂も、人間としての表れの全ても良しとするものだ。それは理屈ではない。思考で分かるものではない。思考を超えてただそう在るものだ。

 
真我に意識が溶けている配分が多いと、確かに様々なことに無反応である。何も生じていないからだ。無思考であり、静寂であり、時に至福だ。

 
しかし先に書いたように、一方で人間としての表れの全ても良しとして、個人意識を体験することもできる。真我から再構築した個人意識だ。個人であり同時に全体である意識。真我と個人を同時に体感している意識。

 

 
喜怒哀楽はエネルギーであり、体験のツールであり、どんな感情に良し悪しもないと知る時、瞬間を楽しみ、瞬間を純粋に苦しんでみることができる。苦しみを肯定しながら苦しむということがある。ちゃんと苦しんであげるとき、またそこにアルケミーが起きて新たな私の一面が開く。そしてまたハートは開くのだ。この時苦しみとは問題ではなくなる。

 
こういう意識の時、純粋に、本当に純粋に、対象を愛でることもできる。執着なく、ただ在る存在を愛でることもできる。

 
愛でることができてもできなくても問題はないが、人間として物質体がある時にだけ体験できる素晴らしい体験のひとつだと思う。

 

 
余談ではあるけれど、昨年暮れに小型犬を家族に迎えた。目覚めてから犬と共に暮らすのは初めてだが、存在を愛でるという意味では人生の中で今が一番純粋に体験できている。

 
執着を交えた濃い感情ではないが、ただ在る存在が素晴らしく、時に感謝が溢れる。添い寝してるだけで毎日爆発的にハートが開くので、動物が発しているエネルギーは凄いなと思う。

 
同時に犬と私という相対的な認識が真我に溶けている時もある。こういう多様性を体験している。

 

 
また、最近あるきっかけがあって、長年乗っていた軽自動車から外国車に乗り換えた。非常に状態の良いものであるが、巡り合わせで軽自動車くらいの価格で購入したもの。

 
納車して翌々日くらいに大雨だった。視界が悪いと同時に夜であったこと、慣れない車の大きさであったことが重なり、家の庭に駐車する際にホイールの側面を段差でガリガリと擦ってしまった。気に入って購入した車だが、全く気持ちは平坦で、静かなままだった。

 
昔の私なら色々な思考が巡ってしばらくガッカリしていただろうが、そういうことが一切ない。無執着というのは、まぁ、こういう時楽ではある。ただ起きたことを意味づけなく“ただ観る”、だけ。全ての物はいつかは朽ちる。それが遅いか早いかだけ。それが腑に落ちていれば後悔は生じようもない。しかし無執着と、大切にするしないは別であるから、この後駐車に慣れるまでは慎重さを持ったけれども。

 

 
度々口にすることだけれど、真我覚醒は決して特別な事ではなく、誰もの本質であるし、言葉では表し難いことでもあるし、また当たり前のことでもあるために、近年では中々snsに書く気持ちが起きないというのが正直なところで、そういう時私は何をしているのかというと、ただ日々の瞬間瞬間を、ただ味わっているだけなのだ。ふつうの、ふつうの人間として、ただ暮らしている。しかし同時に探究はもはや暮らしの一部なので、探究をしていない日もない、という。相変わらず真我からの物質、非物質についての探究をしている。

 
なので、なんというかsnsで人がご飯の写真をアップしているくらいの感覚で、私にとっては当たり前のこととして、探究や覚醒のことを今後も書いたり書かなかったりするのだと思う。


そしてそれが目に止まって、興味を持たれた方に直接お伝えできるひと時があって、そういう時間は理屈ではなく循環として素晴らしいな、ありがたいな、と感じている。

 
何のまとめもないけれど、覚醒と暮らしの話があったら10年前の私は読みたかったなぁと思い、今日は書ききってみた。

 
長々と読んでくださってありがとう。

真我からの個として

言葉というもの自体が

真我からの分離を創造するツールなのだ

りんご

と口にした瞬間

りんごとそれ以外が表れる

ひとつだけを表現することが

言葉のある世界ではできない

ひとつ口にすれば

必ず“それ以外”が同時に創造される

 

全ては本来一続きのもので

何も分かれてはいない

全く分かれてはいないのだ

 

だから真我に個人が溶け去るとき

そこに言葉は生じない

聖なる沈黙

全てを包括する沈黙

 

沈黙の中に思考が生じないのは

思考自体が言葉で成っているからだ

言葉という分離は真我に溶け去る

言葉が無いとき思考もない

 

 

しかしながら

現代社会に身を置きながら

真我に溶け去った状態で

どのように 暮らしていくのかが

真我覚醒後には大切になってくると思う

真我から見れば全てが幻想である

幻想を幻想と知りながら如何に過ごすのか

それが大切になってくる

 

言葉というツールを使い

認識し 認識を重ねて あらゆる角度から意味づけ

人は自ら意味をつけて来たことに 心揺さぶられ

翻弄されてきたけれど

それが 全て幻想である と見抜きながら

この社会の幻想を過ごすという

そういう矛盾を 真我覚醒だけでは

受け入れがたい 意識状態になることがある

誰が何を口にしても 幻想に過ぎず

そこに付き合うことの無意味さに

疲弊してしまうから

 

 

しかし 真我覚醒の後に来る覚醒があることを

知って置いて欲しい

この幻想世界を そもそも生んだのも 真我である

そう気づくとき 幻想体験を 深く肯定するから

世界は真我の表れだ

 

真我から生じた人としてのその個を

どう在ってもいい

どう表現してもいい

どんな環境にいてもいい

ただ 選べばいい

 

真我から表れた

真の個を

ただ 体験する

それ以上でも

それ以下でもなく

それは全てだ

 

やがて真我と表現の境はなくなる

 

そこでは自我を否定することもできないだろう

 

真我と自我という極ではなくなるから

 

真我がただ現れていてそれを認識しているのが五感だ 

 

真我は真我だけでは真我を表現することもない

 

五感は表現だ 五感は認識だ 

 

真我の表現の一部であり 真我の認識の一部だ

 

肉体と真我は統合され

 

肉体は真我に溶け去り

 

また現れる

幻想

人が人を羨む時、その人の背景にあるその他の事、目に見えない苦、歩んで来た過程の苦には気づいていない。人を羨むというのは視野が狭くなっている時に感じられる幻想だ。

 

人と自分を比較するのは、誰かより優れていると、分かりやすく認められるという社会の刷り込みから発生している。優れていたら愛されるという幻想を人は持った。

 

賞賛は無常だ。得ても得ても辿り着かない。ひとつ得ても、また次を求めるそのサイクルが苦の正体だ。求めるのをやめ、今に居なさい。

 

人は得たら幸せになる、維持できたら幸せであるという幻想を抱いている。得た満足は無常だ。反対に今ある苦しみも無常だ。ただ今に居なさい。

  

“今”の連続を思考で繋げて人はそれを過去や未来と呼ぶ。しかし常に今があるだけなのだ。人は思考の中に生きている。過去を悔やみ未来を案ずる。しかし、永遠に“今”しかない。今に居なさい。今に在りなさい。

 

 

今朝浮かんだメッセージでした。お読みいただきありがとうございます。

 

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物質と精神のバランス

あなたが今衣食住が充分に整っているなら、苦しみとは思考感情から来ている。お腹が空いているのに食べるものがない、とか、寒いのに着る物がない、とか、暴力に耐える日々を送っている、とか、そういうことは、まず物理的な側面から状態を変える必要がある。

 

この社会にいながら精神探求に目を向けると、人によっては行動と精神観察のバランスが微妙になってしまう場合がある。例えば暴力を受けているのに、この事象はどこから来ているのか、と観察だけでなんとかしようとしたり、スピリチュアル界で言われるようなアファメーションを駆使して状況を変えたりしようとする事はそれにあたる。建物に例えるなら目の前で火事が起こっているのに、なぜ火がついたかを観察しているようなものだ。火は、とりあえず消せよ。ということなのである。

 

物理的な対処をし状況を整えてから、その事象の全容を見て何を感じたのかを観察するのが精神探求だし、それが逆であると単に地に足のつかない人間になるだけだ。

 

それからこの社会に生きる以上、スペシャリストになる必要はないが、ある程度のコミュニケーション能力はあった方が良い。それは明るく、どんな人とでも関わろう!というようなそんな話ではない。別に1人で居るのが好きなら、そういう選択は勿論アリだ。

 

ここで言うコミュニケーション能力とは、シンプルに言えば人と関わった時に最低限ここが抑えられていれば、コミュニケーションは円滑ですよ、というお話。単に人の話を聞いていないだとか、相手が分かるように伝えられてなかっただけのことを、精神観察(内観)だけでどうにかしようとしても、同じような事象が繰り返されたり、苦しみが繰り返される。

 

ジャッジメントなく相手が何を言わんとしているのか耳を傾けてみること、また、自分が何を考え感じているのか、明確に伝えてみること。

 

 これらの行動、コミュニケーション、精神観察、そのバランスに着目してみるといい。

 

また精神と物質体(肉体) は一続きのものであるので、物質体が不健康になるような食事をし続けて、精神だけ観察してもそれもまたバランスとしては欠けている。体は食事や習慣で作られるし、体の状態はダイレクトに精神に影響している。

 

食事に気をつけなきゃ!と思いすぎるのは単に心身の緊張になるし、食事に対する良し悪しのジャッジメントは新たな観念を生み出す場合があるから、そういう視点ではなくて、できる限り体に優しくあろうと心がけて食事を選んでみることが大切かと思う。

 

添加物の入ったものを食べるなと言っても、この社会にいると他にやること、考えることが沢山あったりして、食事を選ぶことがままならない時もある。勿論添加物等をとらない方が体の為には良いけれど、絶対ダメとして自他を見張っていると、それはただ精神的に新しい苦しみを生むに過ぎない。

 

また、誰かにとって合う食事が万人に合うとは限らないことも覚えていてほしい。この世に“絶対的に良いこと”も、“絶対的に悪いこと”も、いかなる側面において存在しないことを知った上で、“今の自分に合うもの”をその都度選択したらいいと思う。

 

選択として、満ちる感じがするなら、食について色々こだわってみる選択もいいと思う。

 

その都度の選択の自由を自他に与えながら、 行動、コミュニケーション、精神観察、そのバランスに着目してみるといい。 

 

精神探求、観察は戒める事ではないよ。自分を構成しているその人間という小宇宙を、ただ純粋に知る作業だ。

 

どうあっても、どの瞬間にも優劣はないよ。

ただ、知ること。ただ、感じ尽くしていくこと。

 

 

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内的観察

内的観察とは、地道なものです。地道だけれど、それは確かに苦からの解放の道のひとつだと思います。その過程で観察する視点が全体に溶け去り、そこに真我が現れる。

 

真我が現れたら、そこでゴールなのではなく、本質からこの物質世界を体験して行く始まりです。それまではいつかどこかで取り入れた観念によって選択と体験が繰り返されます。観念というのは時代や環境、関わる人間関係等において移ろいゆくものですから、観念を主軸にしていては人の心はずっと移ろいゆくものに翻弄されてしまいます。

 

こうでなければならない、これは良くてあれは駄目、そういった考え全てが観念です。また、得たい、失いたくない、という執着によっても人の心は揺さぶられます。

 

良い悪いというジャッジメント、得る失うという認識から派生した執着、それらが無ければ無いほどに、人の心は平穏だと言えます。

 

なぜ良いと思ったのか、なぜ悪いと思ったのか、なぜ得たいと思ったのか、なぜ失いたくないと思ったのか、心の動きを観察して行くこと。そこに様々な気づきがあるでしょう。

 

いつもセーブしてしまう心の動きもまた、いつかどこかの体験から覚えた反応パターンです。本当は〇〇と言いたかったのに、逆の事を言ってしまった、言いたいことが言えず、黙って飲み込む癖がついて本音を無視してきた、等。

 

そう言ったことに対してもなぜそうして来たのか?と観察して行かれると気づきがあると思います。

 

上手く観察できる日もできない日もあるでしょう。できるのが良くて、できないのは悪い、というのもまたジャッジメントです。ジャッジメントは新たな緊張を生んでしまいます。結果にとらわれず、ただ観て行くことが大切です。

 

観察して行かれると、何重にも蓋をして来た感情が噴出して来ます。感情はただエネルギーであり、どんな感情にも良い悪いはありません。ただ、出てくるのを許してあげてください。感じ尽くしてあげてください。感じている最中は時に、その感情に飲み込まれてしまうような感覚になるかも知れませんが、先にお伝えした通り感情はただのエネルギーです。感じ尽くしてあげると、文字通り尽きる時が来ます。

 

これらの繰り返しにより、徐々に観念が薄れて行くのです。

 

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

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