すべてを内包するもの

不思議なことは

それが稀なことだから不思議なのであって

常なるものとなったとき

それは不思議でもなんでもない

 

例えば

スマフォをね

江戸時代に持って行けたとして

そこで誰かに見せたなら

江戸時代の人は魔法か何かだと思うかも知れない

神の仕業だ!

ってね

 

現代ではもう

当たり前のようになっているでしょ

不思議でもなんでもない

 

私はこの身に開いた能力の話を

ブログでもTwitterでも書いているけれど

それは不思議なことでも

特別なものでもないの

すべての人間が本当は潜在的に持っているもの

 

そしてそれらの能力を開くも開かないも自由で

開いたから良いとか悪いとかもない

 

開いたなら開いたなりに

たくさんの事を学ばなければならないし

 

昔の私は単純に

色々見えたらどんなにいいか

って思っていたけど

 

見えるってことは

人間の素晴らしい部分も

そうでない部分も

丸ごと無条件に受け入れるということ

 

受け入れるキャパを養うには

やはり自身の精神的成長が必要になる

探求が必要になる

 

拒否感がなくなるまで

心を洗わない限り

見えるって事は時に苦しみだろう

 

見えるっていう慢心も捨てなきゃならない

特別な存在

誰かより優れる存在は

どこまで行っても居ないって事を

しっかり知らなければならない

 

 

また

悟り=能力が開くということではない

悟ってもなにも見えない人も沢山いる

超人になる訳ではない

至ってふつうだ

 

いいや

能力が開いたって

至ってふつうだ

分かるかい

 

私の  能力

私の  力

私の

私の

 

そういう我をすべて捨てるがいい

 

そう

そんなの他の事も同じ

私のもの  と思って

それを掴みつづける時

人は苦しみを体験できるのさ

 

分かるかい

分かるね

そうさ

 

 

山と蜂と様々な領域の視点

河原にいる。今年4月、東京を離れてある場所に引越しをした。30分も車で走れば山の中に入れて、綺麗な河が流れている。ひと月に何度か私はこの河原に1人でやって来て、

----------

今日の午後、ここまで書いたときにある事が起きた。その体験をここに記す。



 


「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」そう聞こえた。

 

河原に車を停車して車の窓を開け放していたら、大きな蜂が車内に入ってしまった。蜜蜂ではないようだ。私の目の前をブンブンと羽を鳴らして飛んでいる。私は蜂のいる位置を見届けた後、そっと車外に出た。刺されたりはしなかったが、さて困った。

 

こう言う時は面白いものだ。内面は静かであるのに、表面ではどうしたら蜂が車外に出て行くかと試行錯誤する。帰りの車に蜂が御同行では困る。蜂は私を試すようにフロントガラスの近くでじっとしていて、クーラーの風が当たる位置に留まっていた。

 

私はそっと車内に手をのばし、エンジンをかけた。窓から出て行きそうに見えたのでクーラーの風力をマックスにし風で煽ってみたが、それでも蜂は少し体の位置を変えただけで、そこに居るままだ。車のガラスに張る日よけシートでパタパタと煽っても、動かなかった。

 

私はどうしたものかと考えた末、私の背後にたたずむ木に蜂を車外に出すにはどうしたらいい?と聞いた。木は幼子に微笑むようなエネルギーで、蜂ごときでそんな様子では‥、と優しく答えた後知恵をくれた。

 

その知恵にしたがい日よけシートを丸めたまま、その先端を蜂に近づけると、蜂はよじよじと日よけシートに登った。登ったのを見届けると、私はそのままシートを車外に出して、蜂を逃す事に成功した。

 

その後車に乗って全ての窓を閉めると同時に、雨が降り出した。私は河原の土の上に停車した車がぬかるみにはまらないよう、その場を後にする事にした。

 

そして山道で聞こえてきたのが「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」だった。それは原理は分かるのだが、私は虫と同化するのはそんなに得意ではない。その昔様々なものと物理体の制限を超えて一体となる体験をしたが(空の一体とはまた違い、様々なものの視点になりそのものを体感する)、一体になると、場合によってはその物の構造まであらわに見えてしまう事がある。虫の構造まで見える場合、割とグロテスクだったりする。昆虫マニアにはたまらんかも知れないが、私は別の意味でたまらんのだ。

 

無我の境地でそれを体感するなら、グロテスクという判断も、それをあまり見たくないなということも消滅するからまだいいのだが、私は別に今無我になりたくない。

 

で、蜂をコントロールするには他にも方法があるのを知っていた。それは愛を持ってお願いすることだ。車外に出て行ってくださいね、と。しかし、これもまた充分に気をつけないと、逆に好かれてこちらに来てしまう。(この件についての観察とエネルギーコントロールがいまひとつなのは分かっているが、探求する気も特に今起きない)何度か虫についてはそういう事を経験しているから、今回は物理的な対処を木に聞いて事なきを得た。

 

すべてと極限まで一体なら、それは神そのものの意識と同じであるから、神の内にあるすべては意のままになる。それは知っている。そういう体験をしていた時期もあった。

 

私はその時思った。永遠に意図した事だけが目の前に表れるだけって、つまらんな。と。1人で次の瞬間なにが起こるか知っていても、なんのリアクションも生まれない。知ってた事が起こりました、以上。なのである。これは面白くない。

 

人間の体を通して何かを体験するとき、色々な事を知らないというのは体験ギフトだとそこで感じた。人間の体験は未知だから面白い。

 

なんのオチもまとめもありませんが、今夜はこれで。いつも読んでくださってありがとうございます。感謝します。


P.S.山はほんのり紅葉し始めました。

 

f:id:kuujigen:20170912000627j:image

意識の可動域

‪時々、数ある悟りの話の中でもご自身の体験を綴っている方はすくないので、興味深く読ませてもらっています、というお声をいただく事がある。‬

 

‪私は人は自然と気づく力があるのを信頼しているから、そして何より私は2008年に悟った後の暮らしが手探り過ぎて、先人たちの悟り後の人生がどうなったかの方を知りたかったから、体験を書いているのもある。ただの自動手記の時もある。‬ただ、あるがままでいて、見たい人が見たいように見て、何かを気づくタイミングで、気づくだけだ、という委ねた視点でブログを書く。普段はもう、それすら考えていない。野花や草木がそこに咲くように、ただ私は私で在るだけだ。

 

‪無我の境地に入ったら、ずっとそのままなのか?っていう疑問を、現代では晴らしておかないと、悟り後の俗世に居ながらにして悟った多くの人にとって苦しみになってしまうだろう。

 

‪ずっと無我でいるかどうかっていうのは、その後の環境によりますよ。無我じゃまず、対話ができないのだから、仮にできたとしても一般の仕事は無理です。人里離れた1人でいられる環境でないと、ずっと無我ということはないです。

 

‪俗世にいる場合には、意識はグラデーションのように、可動域が必要になります。つまり、あなたと私が居ると認識できる意識と、居ない意識の使い分けです。‬

 

そこに混乱しなくなった時、どんな意識状態でも良しなんだと腑に落ちている時、それは何より安らかでしょう。

 

対象無き空も、空から形となったすべても、すべて良い。一貫して伝えたいのはこれに尽きます。

 

珍しく本日2回目の更新でした。

 

 

 

ありがとう。

 

広告を非表示にする

変化

至福に溶けそうになりながら、人間の体を通して地球を体験するのは無常だと思う。すべてが移ろいでゆく。ずっと一定であることは何もない。

 

人生の乱気流を抜けたなら、多少の向かい風が起こる日があっても、大体穏やかでいられる。苦しみの波に飲まれてどうにもならないことは、起こらなくなってくる。

 

そういう中にいる。

 

それでも、人間である以上予想もつかない事がまだまだあるんだな、と私はこの数日嬉しくもあり、しかし執着もしない、体験者と俯瞰した視点が同時にある中で、ただその様を見ている。味わっている。

 

数日前、昔から世界中を旅していて、近年はよくインドに行っている友人(目覚めびと)から話を聞いて、富士山の麓で開かれたヤグニャと呼ばれるインドの儀式に2日間参加してきた。

 

私はこういったことに、良くも悪くもない意味で興味がわかない人間であったが、なんとなく今回は行ってみようと思った。

 

なんでも、日本に自然災害が多いので、供養と平和の祈りにお坊さんがやってきてくださったのだという。

 

f:id:kuujigen:20170906101938j:image

 

3日間の内早朝から昼過ぎまで、中日は夜の部もあり、休むことなくマントラが唱えられる。楽隊の賑やかな音楽が奏でられ、会場にはなんともいえないインドのお香のような、燻された香りが立ち込める。ギーと言われる油と薪と様々な植物が燃やされる。

 

私はこの人生で儀式や修行みたいな事に縁はなかったが(自己流ですべてを観察して悟った)、何千年も続いているインドの教えに基づいて真摯に祈りに向かう姿や、その音や空間のエネルギーの清さに、私はただ目を閉じて瞑想していた。瞑想していると、普段1人で行うのとはまた違った領域に気づく。気づくし、知らなかった面の理解が起きたりもした。

 

私の瞑想は、今ある自分のエネルギーを調整すると同時に宇宙の成り立ちを観察するような瞑想に自然となる。度々サマディに入って、全体に溶ける時間を交えながら。

 

沢山の発見があった。

理解が深まった。

 

私は魂の記憶の中に、何度も形を変え布教していた感覚があって、古き良きやり方はもう充分だし、それに宗教性の在り方が時に真理を歪めてしまう(神を自分の外に見るやり方が場合によっては意識上に分離を生んだり、崇拝になってしまう場合があることを懸念した)から、その辺りを今世の最初の悟りの後に、そうではないと伝えに来た感覚があった。あなたと神は同一であり、上も下もない。その部分を強調するために、俗世に居て、見てくれは一般の人間でどこにでも居そうである事が大切であったのだ。悟りは限られた人間にだけ起こるものではなく、布一枚まとっただけの、修行者や僧侶にだけ起こるものではなく、こんな感じの人間が悟るもの、という集合意識に対して、そんなものはすべて概念なんだ!そう伝える為にここに居た。だから、私自身はまったく伝統的なやり方には入っていかなかった。

 

時に懸命に信仰しているタイプの人間からは、なんてやつだ(信仰の対象を冒涜している)と思われたこともあったが、なんてやつだと思うその心を是非観察して頂きたいと思っていた。それはあなたの解放だからだ。

 

私は一度も、なにも冒涜していない。冒涜は冒涜と感じるものの中にある。信仰すら超えなければあなたはあなたの本当に知りたかった所に、出会いはしないのだ。そんな風に世の中を見ていた。

(勿論信仰する自由もまた良し、と思いながら。すべての道に、体験に、誤りはないから。)

 

だけどきっと、何らかのサイクルが穏やかに終わりを迎えたのだろうな。ただ1つのものに向けて、儀式をするってとてもいいな!儀式自体と言うよりは、エネルギー的にとても良い、と感じた。

 

すべて良しのこれまでのゆるゆる自由さも、真摯に一点に向けてエネルギーを捧げるのも、全部良い。

 

今回のヤグニャを教えてくれた友人が、冬になったらまだインドに行って、洞窟にこもって無言行をやろうかなと言っていて、ちょっといいなって思ってる。それはいつかどこかの私がやりたかったことでもある。やらなかったことでもある。

 

ここ最近、地球での私の在り方に変化の予兆がある。大体どうなるかは見えているが、まだ3次元に繋げる部分がはっきりと見えていない。やるだけ、なのかもしれないが。

 

私は私の行く末についてなにも約束しないし、約束した所で無常には逆らえない。ただ確かなのはもっと自由になってゆくだろうこと。自由に限度はない。

 

これを読んでいらっしゃるあなたがもしも、不自由さの中にいるなら、しっかり自分を観て、やりたいことをやっていってほしい。あなたはあなたを楽しむために、そこに居るんだ。あなたの体験を、あなたの思考の制限で狭めぬよう観察があって、無常の中を思い切りそれぞれの形で楽しめばいい。

 

 

 

ありがとう。

 

広告を非表示にする

多次元と悟りと日常

おはよう。

数ヶ月ぶりの更新です。

Twitter上ではメッセージがやってくるたびに書き綴っていますが、メッセージはいつも突発的に脈絡なくやってくるので、パッ!っと書いて終えることができるTwitterが、合っているし楽なんですね。

 

対してブログというのは文をまとめていく作業が僅かに挟まるので、感覚的には少しスローな感じになる。風のように軽やかに、その瞬間にしかいないことが多い意識としては、そのスローさに意識の密度を合わせる感覚に中々ならない、というのが本音です。

 

別の言い方をすれば、いつも最適なことが起こるから、Twitterであってもブログであっても、書く時がその時。という感覚でもあります。

 

常にその瞬間にしかなく、また同時に多次元的な意識である脳内を、文字にするのは難しい。宇宙人がミステリーサークルでメッセージを伝えようとする感覚がちょっと分かるような気がします。絵とか、図形とか、音とか、そういうものには無数の情報がある。無数の情報を、パッとその中に表す。

 

今朝もね、起き抜けの寝てると起きてる、の間の意識の中で、私は別のパラレルワールドをリアル体感で体験していました。それは夢を見てる時の感覚に似ているけれど、物に触った時の体感だとか、におい、そういうものがとてもリアルなんです。で、そのパラレルワールドを体験しながら、それを俯瞰している多次元意識も同時にある。体験しながら次元と次元の関係性の理解をしていたりだとか、パラレルワールドの中で目に見えない存在からメッセージが来たりだとか、パラレルワールド内の日常でも今居る現実と同じように行為をし、何かを感じたりしながら、その感じてる事に対して、多次元的な解説が入ったりもする。で、目が覚めた時、目が覚めた意識でまたそれらを多角的に理解する。

 

朝から忙しい感じですが、本人としては非常にリラックスした状態だし、体はほんのり至福感もまじる場合もあります。今も、体はほよほよゆるゆる、気持ちがよい。

 

目覚め(非二元の悟り)の話でよく、すべて幻想であり実在していない、という文句をよく目にするようになってきた昨今ですが、“自分”だと思っていた意識が全体に溶け去ると、すべての境が消滅します。そこにはあなたも私もいない、物もない、愛しかない、愛すら愛と言葉にするまで愛という感覚ですらない、何も無くて全部在る、その中には多次元も存在しません。

 

では多次元というのは何かというと、その何も無いものがすべてに表れていく時の仕組みのことです。何も無いものが、なぜすべてになって表れたかといえば、純粋にすべてを知りたいとそういう意が最初にあったからです。

 

ですからすべて幻想、実在していないというだけでは悟りの段階としては半分行ったところです。それを悟ったところで、肉体の感覚はあるし、今までの暮らしも続きます。当たり前にそこに人間としての生活があるのです。なぜすべて幻想であるのに、それらがあるか?って事に気付かないと、場合によっては投げやりになってしまう。非二元的な伝え方では、投げやりなるのでさえ、考え、思考でしかない、と言うかも知れません。その伝え方が間違ってるという事ではありませんが、それは見方の一部だということです。

 

何も無いものがすべてを知りたかった、という悟りが起きると、何も無いがすべて在る宇宙のその呼吸のような全体性を、肯定感で見ることができる。

 

その肯定感の上で、宇宙の成り立ちを見ていく。それが多次元感覚です。それは中立な意識でなければ、正しく見ることは難しいかも知れません。意味づけがなされたら、見えた仕組みが解釈によって曲がってしまうから。解釈によって曲がってしまうというのは、簡単にいえば多次元の成り立ちに善悪や優劣をつけてしまっては、それもまた幻想ドラマである、ということです。幻想ドラマを悪いと言っている訳ではありません。でも、ヘタすると魔境と言われる意識に入ってしまうから、中立な意識で見ることが大切なのです。そういう意味では非二元の悟りを経ることは大切です。

 

魔境というのは、純粋な意識で入ってしまうから、中々気づけない。例えば人類が楽になるようにという慈悲を持っている場合に、導けるのは私だけ、真実を知っているのは限られた存在だけ、という思い込みに発展していくことがある。それはもう悪気がゼロなので、そこにはまった場合には本当に深い内観が必要になる。

 

導くも導かれるもなく、すべてが同じ宇宙の根源の表れである。

 

その上で、その体を通してしか知れないことを体験していくために、その体が在るということを体現してゆけたら、それは本当に豊かだと思います。

 

まだまだ、すべてを書き切れた感じはないのですが、これから友人に会いに出かける準備をします。

 

久しぶりの更新の上、長々と読んでくださってありがとう。

あなたはあなたのために

基本的なことを今一度書きなさい。

そう聞こえる朝。

手が動くままに書くことにしよう。

 

 

 

私はいつか、許せない人がいた。

それは地球時間でいえば数年に渡った。

苦しかった。

 

ある時目にした言葉。

“あなたのために、相手を許すのです。相手を許さない限り、その思いに苦しむのは自分でしかありません。あなたのために、相手を許すのです。”

 

腑に落とすには、少し時間がいった。

自我は抵抗した。許さないことで、辛かった自分を守っていたからだ。許したら、自分がどうにかなってしまいそうな気さえした。

 

しかし次々と同じような言葉が、色々なところからこちらに入ってきた。人から聞く話やテレビや本。不思議なくらいに、目につく。また、目につく。抵抗しつつも少しずつ、それを認めて行くしかなかった。

 

私は忘れないように、毎日唱えた。毎日読んだ。許し方なんて分からなかったし。

“あなたのために、相手を許すのです。相手を許さない限り、その思いに苦しむのは自分でしかありません。あなたのために、相手を許すのです。”

 

私は、私のために、許します。

私は、私のために、許します。

 

色々な言葉で、自分に言い聞かせた。

言い聞かせることは、抑圧とは違った。そうやってすり込み、思考回路を少しずつ変化させていったのだ。

 

数ヶ月繰り返している内に、少しずつ許せない思いが溶けて行って、やがて私は私の思いから解放された。

 

それからまた数年経って、あるきっかけからその許せなかった相手に再会した。その時は想像していたより穏やかに会えた反面、付き合いを進めると、やはり腹の立つ人だった。根本的に精神性が合わないのだ。しかし、その場で腹は立ったが、責める気持ちはそう続かなかった。私は私のために、多くを許し上手になっていた。そしてそれと共に、私は潔くその相手との交流を絶った。許す事と、状況を受け入れ続ける事はまた違うのだ。

 

それからも様々な場面で私は私のために多くを許し、私は私のために私が幸せである、楽である選択を続けた。私が平和なら、私の世界は幸せだ。そうやって私が私を幸せにしてあげる事を続けながら、沢山の自分の観念を観察し、掘り下げ解いて行った先に、悟りがあった。まるで玉ねぎを剥き続ければ何もないように、掴んでいたものは何もなかったと、思考でも認識でもない“それ”が、ただ在った。怒涛の愛のエネルギーがハートから溢れて、内外は一体であった。すべての境はなかった。

 

 

まず、あなたが幸せであれ。

あなたのために許し、あなたのために選択し、不足ではなく足りてるものに気づきなさい。足りてるものに感謝しなさい。

 

そして時には感謝できない日も、やっぱり誰かを責めてしまう日もあるかもしれない。そんな時は自分を許しなさい。自分を労いなさい。あなたはあなたのためにあなたを許しなさい。

 

まず、あなたが幸せであれ。
あなたのために許し、あなたのために選択し、不足ではなく足りてるものに気づきなさい。足りてるものに感謝しなさい。

 

(自動手記メッセージ)

 

 

涅槃

昨年12月辺りから、瞑想会等の主だった表向きの活動は自然と休止状態だった。

 

年が明けて2月のあたま、意図してそうした訳ではないが、私はこの人生において3度目の涅槃入りを果たしそうになっていた。1度目は最初の悟りで、2度目は3〜4年前に、そして今回だ。

 

【涅槃】ねはん
一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦(しゃか)や聖者の死。入滅。 「―に入る」

 

朝、至福に溶けて、頭頂から抜けて行ってしまう。

 

抜けきれば、この肉体を過ごすのは終わりである。

 

抜けてゆく最中に、毎回選択がある。

 

抜け切るのか、物理次元に残るのか。

 

ふと、残される家族や友人が浮かんだ。

 

そして、この肉体を通して観ることのできる多次元を、せっかくだからもう少し観ていこう、と浮かんだ。

 

これらが浮かぶとき私という個人が思い感じるものとは違う。ただ、そのように浮かぶ。

 

肉体を通し観察を続ければまだ気づけることはあるだろう。好奇心に似た、しかしもっと微細なエネルギーで、私は頭頂から抜けて半分まで行ったところで引き返した。

 

それに、肉体を脱いでの入滅は何回か体験して知ってるから、どうせなら虹の体で物理次元に好き勝手に出たり消えたりが自在になるなら面白い、とは感じる。

 

しかしそこにも執着がないから、どちらでも良いとも思う。

 

涅槃を説明する引用文に、一切の煩悩から解脱したー とあるが、私の感覚から言えば肉体を微細に観察してゆくと、肉体自体が多次元の煩悩で営まれているので、説明とはいつの日も説明しきれないものだな、と思う。ただ、個人的な欲から離れているという意味では、煩悩がない、とは言える。

 

多次元の煩悩とは、多角的すぎて文字に起こすスキルが追いつかないのだが、それは全宇宙の連鎖のエネルギーという表現でもいい。

 

一口に悟りだ目覚めだ気づきだと言っても、それらは無限のように深まり、何段階にも気づける。

 

そして、気づきを含めた幻想だ。

 

なにも掴むことなく、ただ気づきを流していけばいい。

 

川の水のように絶え間なく、流れればいい。

 

 

 

 

 

 

広告を非表示にする