ほんとうのあなた

ほんとうのあなたを生きるには

ほんとうのあなたに一度還るしかない

なんの制限もないあなたに

 

あなたはほんとうの自分を

思考で探していたけれど

思考の無いところに出会えるのが

ずっと在った 愛そのもののあなた

 

それは慈愛や慈悲に満ちている様とはちがう

対象に向けられた愛ではなく

ただ 愛

 

ほんとうは知っている

ずっとそうだった

今もここにある

 

あなたがずっとここにある愛から離れたのは

あなた以外になろうとした働きによって

今より正しいことがあって

今より悪いことがあって

より優れた人になって

そうなれないと劣った人になって

存在には優劣があると思ってきた

あるがままの自分を置き去りに

今でない何かに成ろうとした

そうすればいつか幸せになるとさえ思えた

 

今幸せになればいい

今あなたを受け入れたらいい

今の連続でしかないものを

今までと今とこれからがあると思い込んで

常に今しかないのに

 

今以外を追う心が

苦であることに気づく時が来た

 

あなたはあなたに受け入れられるのを

いつも待っているよ

 

 

 

くぅ。5月20日瞑想会(@kuujigen) - Twilog

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全容

観念すら愛である。

意識が進化したとき、観念もまた愛に見えるから、そう言った面でも苦はなくなる。観念とは、宇宙の循環の一部の働きなんだ。

 

観念によって体験し、観念によって喜び、観念によって縛られ、観念によって己を見つめはじめ、観念から解放される。その全容は源(空、真我)から見れば幻想と言えるが、源から発生した原初の意である私は私を知りたいというそのエネルギーが在るのはまた事実である。ただ体験し、ただ知り、私という源のその愛を拡張していくこと、それは全てだ。

 

そしてそれは目指すものと言うより、体験しては、常にここにあるものという確認によって、自然と拡張する。それは木がその年輪を重ね深めるようなものだ。この世は幻想なのか?答えはyesでありnoだ。幻想ではあるが、在るのもまた事実だから。難しいことは考えずに、望んで叶えて、満ち足りて、その執着を手放せばいい。

 

人間は得たら掴んでいないと幸せが維持できないという勘違いを起こしている。存分に体験したら、しつくしたら、それは四季のように移ろいでゆく。その自然のサイクルに乗りながら、あらゆる面で循環し、私という個人でありながら全体であるその愛を知る。

 

くぅ。5月20日瞑想会(@kuujigen) - Twilog

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幻想と表現と知恵

救いたいという心は

今救われていないという認識が前提にある

その認識が世界を創造しているカラクリを

気づくといい

 

最初から最後まで

終始全ては救われている

不足が幻想だからだ

 

でも

だからといってこの地球で

何もしなくていいということではない

身体が在るってことは

その個体でその存在を表現しなさいということ

 

表現というのは

ただそこに居て

内から湧き出るものを

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

 

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

その視点から

誰かに言動や行動で

出来る範囲で

無理なくなにかを差し出すとき

それは様々な循環をもたらすでしょう

 

 

 :

 

 

“なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること”

 

正しさや間違いというのは観念だけれど

対処の適正という知恵をそこに添えてこそ

観念フリーなその存在を活かすことができるのも事実だ

 私たちはそのバランスを知りに来た

 

例えば正しいも間違いも観念だから

ジャンクフードを毎日食べても大丈夫

というのは単なる無知だ

けれどジャンクフードは絶対ダメというのは

観念による緊張になる

 

物質的な制限を超えた身体にでも変容しない限り

物質の影響はある

 

食事のことだけではなく様々な側面で

環境 空間 コミュニケーション‥

物質と精神は繋がっていることを理解するといい

観念がないことと無知は違うのだ

正しいも間違いも観念であり幻想だけれど

そこで物質的な相互作用を無視してはバランスを欠いてしまう

 

観念から解放された上で

知恵を活かすこと

 

そこであなたは自由になる

そこであなたは循環を知る

 

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

 

それは

それぞれのバランスだ

そこにもひとつの正しさがあるわけではない

そのオリジナルのバランスを

知りに来たし

楽しみに来た

源からの分離を通して

 

もしあなたが今不足を感じるなら

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

をチェックしてみるといいよ

 

 くぅ。22日瞑想会,26日個人セッション(@kuujigen) - Twilog

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体験と循環

私とは何か。いつから私なのか。そんなことを十数年前に観察していた。私とは私を私と認識した時に私だと思えるだけだ。では認識しなければ?‥。

 


最初は理屈で紐解いた。理屈からして、私というのは認識でしかなかった。日常を送りながら、理屈で紐解いたそれをずっと考えていた。

 


その内、無思考は勝手にやってきた。無思考になって行く時恐れが湧いた。何かを掴んでいたものが離れて行くような感覚。手にしていた浮き輪が大海原で手から離れて行くような恐れが浮かんだ。しかし、無思考は思考では止められなかった。

 


手放すしかできなかった。そして、ある時友達の思考が入ってくるようになって、なぜ友達の思考が入ってくるのかと観ていたら、友達なのか自分なのか分からなくなって、境界線は徐々に消えていった。その辺りと平行して、色の無い世界を見たり、見たもの全てになる体感があった。

 


ドアを見ればドアになってしまう。床を見れば床になってしまう。どうしようというような感覚が湧きながら、この物質世界ではこの体に視点を留めなければと、意図して、意識が全てにならないようにした。

 


ある時決定的に、自我の全てが死んだ。私、は居なくなった。背骨に沿って絶え間なく至福のエネルギーが巡っていた。その状態のまま約半年が過ぎ、残った物質体を物質の次元で生かすべく、最低限の自我を構築していった。

 


そしてまた数年が過ぎ、その時点では、この意味のない事が繰り返されるだけの次元が嫌になっていた。意味がないのに、意味を捉えて反応をしなければならないそれに、真剣になることもできず、幻想だと分かっているゆえに心から楽しむこともさほどなかった。

 


ただ意味もなく居るだけなら、居ないのも同じ。別にいつ物質世界から離れてもいいなと、そう思う日が続いた。が、ある時そんな事を感じながらぼんやり床に目を落としていたら、やってきてしまったのだ。

 

次の段階の覚醒が。

 

床の端にちょこんとあったホコリをみて、私は泣いた。ホコリを創ることができたことに感動したのだ。その視点で周りの全てを見渡すと、それらの全てに、創ることができた、という感覚と感動がわいた。

 

宇宙の源のエネルギー、創造主(私なき私)から、世界が生まれた時の、なぜ生まれたかをそこで悟った。意味はないけれど、体験できる全ては愛となった。執着がろくにないのは変わらなかったけれど、執着なくただ今を体験する。それが全てだった。それは喜びであった。

 

意味などなくていいのだ。ここに在ることが全てだ。それは同時に今現れている全てへの全肯定だ。その視点で見ると、どんな観念があっても、それもいい。

 

だけど、そこで止まると、こういう話をシェアする気も実は起きない。全部変える必要がないからだ。一方で変わって行く全てもそのままそれでいい。

 

世界に参加するということは、何かしらのアクションや言葉を表現することだ。だからただ私は悟り、覚醒という話を書いているだけで、誰かを救いたいとか役目だとか、そういったことすら、源に溶けてしまった。それが宇宙の流れだから、とも言えるし、ただ現れているだけと、時折口にするのは上記の全てを含んでの事だ。

 

あなたが、あなたで在りたい形に現れたらいい。

 

そこにはこれまでの体験を選び続ける自由だってあるし、苦楽という二極の揺れを終わりにして行く為に内的観察を深めてもいい。物質的な世界での行為も、環境も、仕事も、関係性も、選びたいことを選べばいい。

 

そうして、物質体が在るだけ在って、宇宙の流れにそってその形を変える日も、やがて終わる日も、全てがそれでいいよ。

 

あなたはずっと愛だ。

好きなように、在るといい。

 

だけどひとつだけ書いておこうかな。あなたがあなたを許し愛するほどに、あなたは自然と誰かに優しくなる。特別なことをしようとしなくても、誰かに優しくなる。居るだけでいい。居るだけで必要なことはするようになる。宇宙っていうのは、地球っていうのはそういう循環がある。

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

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創造主

旅先にいます。朝6時20分です。

明晰夢を見たあとにパッと目が覚め、突き動かされるようにこうしてブログを書いています。

 

誰もが皆、宇宙の根源から生まれた存在ですので、本来は“居るだけ”で必要なだけその物質体(肉体)は生かされるようになっています。精神的、物質的不足というのは、各々で感じている思考感情の中にあり、またその思考感情によって新たに現実は創造され続けます。精神世界で度々言われる、創造主はあなたである、と言うのはこうした仕組みを含んでいます。

 

内観や感情解放のワークや瞑想によって、観念がクリアになればなるほど、精神的にも物質的にも現れている現実が楽になって行くのは、単純に苦しい考えをしなくなるからでもあり、また現実の創造のエネルギーとなる思考感情が変化することにより、現実自体に起こることが変わってくるからでもあり、そしてまた、本来ずっとそこにある宇宙の根源のエネルギーをせき止めなくなる分、その存在に必要なものは自然と与えられるような流れとなってくる。

 

現実は複雑そうに見えて、ほんとうに“(思考感情による)思いの通り”=“思い通り”です。あなたは何を考え、何を感じるのでしょう。◯◯でなければならない、と信じているのなら、宇宙は現実は◯◯でなければならないという事象をあなたに見せてくれます。その事象を見て、人は「ほらやはり思った通りだ」、とその事象に対してまた意味をつけ、付随して喜怒哀楽を感じます。

 

人間の思考感情の多くは、自分は、他者はこのままでは駄目だ、良くない、より良くならねば、と何かをジャッジメントします。◯◯では駄目だ、◯◯では良くない、◯◯より良くならなければ、と思う限り、駄目で、良くなくて、良くならなければならない現実を見ることになるでしょう。

 

それは当たり前に繰り返されてきた社会の刷り込みでしかありません。家庭でも学校でも、何かがよりできれば優秀だと教えられ続け、人間は素直にそれを信じてきました。素直により良くなろうとしたし、その積み重ねで無意識に今のままでは駄目だと考えるようになりました。

 

幸せになりたいと誰もが思うものですが、幸せになりたいと思いながら、今のままでは駄目だというそのエネルギーで創造をします。こうして望みながらも打ち消すような、アクセルとブレーキを同時に踏み続けてしまうような働きを、やめていくことができます。

 

まずありのままの自分を許すところから始まります。ありのままを許していくことは、受け入れることであり、それは肯定です。許し、受け入れ、肯定、のエネルギーから、創造した時、どんな現実となって行くかは察することができると思います。

 

人は自分を許せた分だけ、他者にも寛容になり始めます。先に他者を許そう、心豊かな人間になろう、と、自分が癒されていないのに努めては新たな苦しみを生むだけです。まず自分を許し受け入れるところから始まります。

 

内観という思考感情の紐解き以前に必要なのは、ただ悲しかった自分、ただ怒っている自分、ただ嬉しい自分、を感じきってあげることです。感情はどれも良いものでも悪いものでもなく、中立な視点から見るとただそうあるだけです。ただそうあるだけのエネルギーですから、感じきってしまえば終わります。感情の解放をしてから、内観に取り組むとスムーズです。

 

また多くの方は、言葉を変える必要があります。当たり前に使うネガティブな言葉を1番近くで聞いているのは自分自身です。言葉を認識し、それは思いとなり、思いは現実を創造します。

 

言葉を変えるという取り組みも、感情の解放が先になります。人は心の疲れや傷が癒されていなければ、新しい取り組みにも疲れてしまいますから。

 

内観も言葉を変えることも、感情解放の後です。

 

感情解放、内観や瞑想、言葉を変えるに加え、選びたいことを選んで行ってあげることも大切です。楽だったり、楽しかったり、ワクワクしたり、無条件に惹かれる方向や物を選んであげる。

 

上記は現実創造の仕組みの一部ですが、これらを繰り返し実践して頂ければ人は精神的にも事象的にも満ちる方へシフトしていきます。

 

本日も読んでくださってありがとうございます。

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

 

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ひとつのマルから

みんなになって

ひとつのマルから

みんなにみえて

 

境なんて

いちどもなかったのさ

 

でも

境がないから

境が見える夢を見たんだ

 

キミはずっとすべてだし

キミはキミを越えた愛なんだ

キミはキミを越えた神なんだ

 

あんしんしていいよ

夢をそのまま楽しんでもいい

 

夢を否定することないだろう?

夢の中で夢を否定する夢もいいけどね

夢の中で夢を広げたっていい

夢の中で夢を楽しんだっていい

 

あんしんしていいよ

泣きたいときには泣いて

笑いたいときには笑って

 

いつか夢から覚めたら

夢を愛するよ

愛せないときも

愛するよ

 

キミはずっと

そのままで愛だよ

 

キミはキミを許してごらん

あるがままを許してごらん

 

誰かと比べる夢を終わりにしてもいい

自分を責める夢を終わりにしてもいい

 

キミは好きなように夢を解釈できる

 

だってそうだろう?

キミが見る夢なんだ

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サマディー、悟りの段階。あるがままに。

なんの想念も浮かばないので、“何かを伝えたい”もない。

 

この記事も書かなくてもよいかなという感覚であった。

 

静寂の銀世界に、わざわざ足跡をひとつつけにゆくような、そんな動力が必要だ。

 

静かだ。

 

 

先日、インドの某アシュラムに長期滞在中の友人から、LINE電話がかかってきた。アシュラムで受けたアーユルベーダの徹底したデトックスの過程の話、エネルギーの話、インドで言う悟りの話等、色々な話を聞かせてくれて、そして時に意見を求められた。

 

私は、ツイッターのプロフィール的文章にはヨーガ用語や仏教用語なるものを添えてはいるがヨーガにも仏教にも詳しいわけではない。ブログの最初の方の記事でも書いた通り、ほぼ独学で内観や食事、行動言動を変えて行くことを徹底的にやっていたら、求めてもいないのに深い悟りがやって来てしまって、それを説明するための知識をつぎはぎのように集めて来たタイプなので、今でも知識としてデータがない部分もきっといくつもある。

 

一方で体験では一通り知っているので、専門的な用語がどういった状態を指すのか話してもらえれば、何を言われても ああ あのことか。とはなる。

 

知識は時に必要だと思う。だけど、最初に学ばなかったからなんの先入観もなかったのは確かで、知識がないから悟りに対する執着がゼロだったし、先入観も執着もないままに、当時やっていた事は本格修行者並みの暮らしぶりだった、というところで恐らく“悟りを妨げることができなかった”。

 

求める心を徹底的にしらみ潰しに滅して、与えるに徹していたら、その経過はまぁ苦しいものではあるが、あれだけやったら誰でも悟るわ。とは思う。今思うと多角的に自我が生まれる余地を与えなかったのだから、そりゃ悟る。

 

(悟りに至る道はいくつもあるので、この方法でしか悟らないということではありません。)

 

時折簡単に悟った人だと、特別な人なんだろうと勘違いして頂くことがあるけれども、そんなことは全くない。

 

ちなみに、言葉は乱暴かも知れないけれど、深まるとこまで深まったなら、悟りとか正直どうでもいい。悟る悟らないの差がないから。ふつうに、いつか肉体の寿命がやってくるまで、ここに居る。過ごす。体験する。それだけなのである。

 

人間はただそれだけに対して、何か意味を探したり、善し悪しの判断をつけたり、恐れを持ったりするから、時に苦を感じることになって(私は意味づけや恐れ苦もまた否定する事ではないと観る。そのように現れているだけだと観る。)、それらの心の動きから解放されようとまた相対性のないそれ、仏教で言ったら空、ヨーガで言ったらサマディーに、すべての本質に気づこうとする働きが起こる。

 

インドに滞在中の友人が電話越しに言う。

日本で(近年)言う悟りとさ、インドで言う悟りって、なんか違うのよ。日本て、ちょっと悟っただけでも悟りって言うけど、インドだとちゃんと悟りの段階があって、そんなちょっと悟ったくらいのものは悟りとしないのね、と話ながら、彼の目指すニルビカルパサマディーという段階の悟りについて話を続けた。

 

で、その会話をしたのも忘れて数日経っていたのですが、ふと思い立ちサマディーの段階について先ほどちょっと検索したのですね。

 

サビカルパ・サマディー……瞑想者の意識は神の中に融合し、その肉体は硬直して呼吸も心臓もほとんど停止した状態になるが、瞑想者は仮死状態の肉体を完全に意識している。

 

ニルビカルパ・サマディー……瞑想者がさらに高い境地に達すると、普通の顕在意識を保ったままで神との霊交を持続して、絶えざる至福を味わうことができる。最高の境地に達した大師(マスター、解脱成就者、如来)だけが経験できる状態。

 

私の2008年の悟り、サマディーは、ニルビカルパ・サマディーまじりのサビカルパ・サマディーだ。仮死状態と至福が同時にあったが、顕在意識は構築するまでなかった。

 

(悟りの瞬間、私という個人意識はないので、私の悟りという表現は方便でしかない。)

 

(1番最初に開いたお話会では悟った瞬間見るものすべて私だった、と表現したが、あれはほんとうに言いたかった所ではなかった。実際には私と感じるものも消滅していたから。それでもなぜあの段階を話したかと言えば、それを説明するにはもう一本二本ブログを書く必要がありそうだ。)

 

サビカルパ・サマディーから、もう一度相対性の認識世界を構築して、暮らしに戻って行ったのだが、当時は何が起こったのか把握していなかったので、手探りで構築したために、構築しなくてもいい部分もあったと今は思う。無駄な体験は何一つないから、あれはあれでいいけれど。構築してはまた紐解いて、ちょうどいい所を知る過程で、サマディーの段階、悟りは更に深まり、何の意味ももたない全てがなぜ現れたのかを理解した。

 

私は恐らく今ニルビカルパ・サマディーを3分の2も入った所くらいだと感じる。至福についてはまだらなので。そして至福とか段階とかどうでもいいのだけど、今回書くのが必然なので書いている。

 

そしてニルビカルパ・サマディーについては理解するし、分かるのだが、また一方で、このサマディーは肉体が物質の次元に残っているサマディー、悟りなので、私がこれまた入り口に入りかけている虹の体(ゴールドドラゴンボディ/女性の場合はゴールドフェニックスというようですね)は、インドの文献ではなんと表現するのだろうと少しだけよぎりました。が、それもまた気にはしていないです。気にしようとしまいと、必要なら知ることになるから。

 

虹の体は物質体が精妙な次元に移行して、または素粒子分解が起きて、物理的な次元からは見えなくなるのですが、そのまま物理的な次元に戻らない選択と、今一度物理的な次元に戻る選択があると思います。私が度々口にしている虹の体は後者なのですが、正直こちらも、何がどうあってもよいと感じているのが私の現状です。虹の体もなってもならなくてもいい。投げやりな意味では決してなく、何がどうでもそれでいいのです。なんていうか、毎瞬間をそれで良しとしているので、こういう感覚に落ち着くのですね。

 

結びの言葉が何も浮かびませんが、タイピングする手が止んだので、主要なことは書き終えました。

 

今日も長々と読んでくださってありがとうございます。