それ以上でもそれ以下でもなく

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思考の止んだ“そこ”にただ至福が流れる

しかしここではまだ“至福を感じる何か”が微細な領域で働いている

至福を感じる“それ”を観れば至福も統合され感じなくなる

呼吸は自然に止む

 

呼吸が自然に止んだ“状態を認識”すると再び至福が現れる

つまり“思考の動かない微細な認識のエネルギー”と至福はイコールなのかなと

 

しかしこんな言葉上の理屈は 

良くも悪くもない意味で取るに足らないこと

 

ふとエネルギーが生じて

こうして書くことにも人間的な意味はない

ただとある場にささやかな風が生じたように

ただ言葉としただけ

 

風に善し悪しも正誤も無いように

風はただ風であり

言葉もただ言葉であり

それ以上でもそれ以下でもなく

終わり

目を閉じて眠る

朝目を覚ます 

朝は昨日の延長だろうか?

皆記憶の中を生きている

生きるとは記憶なのだ

私とそれ以外を常に認識し

認識に解釈を与え

それを何度も繰り返し

保持し

私だ

あなただ

私の考えだ

誰かの考えだ

正しいか

間違えているか

勝るのか

劣るのか

繰り返し

繰り返す

 

どこかに辿り着くとでも?

いいや

誰もどこへも行かない

ずっと此処で

記憶と認識と解釈が

連鎖して

そこで体験したとしている

 

記憶と認識と解釈が

すべて静かになって

頭の中のお喋りはやんで

私という記憶も還る

 

終わりだ

そもそも始まってもいなかったのだから

 

静寂に満ちる

満ちる認識も無く

メッセージ

ただ中立に起きている事象に、どんな意味を与えていますか?

 

思考で意味を与えた数だけ体験があります。

 

人の思考は人の数だけありますから、人の数だけオリジナルの体験があるということです。

 

どんな意味を与えるか、人は選べます。

 

どんな体験にしますか?

 

中立な視点、真我の視点から、何の意味をつけることもなく“ただ観る”とき、何も起きてはいないという静けさに在ることも可能です。

 

 

さて、数ヶ月前に春から個人セッションを予定している旨を告知いたしましたが、ただ今私自身静かに物質体の変容の中にあります。その中にただ在る、ただそこに委ねるということが、結果的に全ての循環に繋がっていることを理解しています。

 

物質体の変容とは物質体を構成する粒子の振動数が微細になって、視点が様々な面で拡張することと言えます。

 

そのような状況にありますことを、お待ち頂いている方へお伝えしておく必要があると感じました。

 

現時点では5月末くらいに何らかの形でセッション(オンライン形式)ができればとは思いますが…変容に委ねた末セッションする時が、その時である、と感じております。

 

ただ在る流れの中で、在るようにあるとき、その個体と全体性は最も自然です。物質世界で、出会うときに出会いましょう。

 

 

今ご自宅で過ごされるお時間が増えていらっしゃるかと思います。瞑想とは座るだけが瞑想ではありません。料理をしながらご自身の呼吸に気づいてみる、身体や心の動きに気づいてみる、お風呂に入りながら呼吸に気づいてみる、身体や心の動きに気づいてみる、お掃除をしながら呼吸に気づいてみる、身体や心の動きに気づいてみる… そういったことも瞑想のひとつです。

 

今の流れが、ご自身に対して丁寧に過ごすきっかけになる方もいらっしゃるかも知れませんね。

 

どうもありがとう。

それでは、また。

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欲求を手放す

期待がなければ、裏切られることもない。

期待の裏には“望んでいる結果”があり、望んでいる結果にならないときに人はその様を裏切られたと解釈するだけだ。

 

怒りも同じ。望む反応が返ってこなかった時に腹が立つだけだ。悲しみも同じ。

 

 

思い通りにならない苦しみを手放せばいい。

思い通りにしたいという欲求を手放せばいい。

 

 

“楽になりたいから、内観する。”

これは楽という結果を得るための内観だ。それは欲求だ。“楽になりたい”も手放す先に、結果に囚われない楽があるのだ。それは苦楽という二極の内の楽ではない。苦も良し楽もよし何もかも良しの楽だ。

 

結果に囚われず内観し、結果に囚われず行動し、結果に囚われず言動し、結果に囚われず静寂の中に在ればいい。“静寂に在ろうとする”のではない。騒がしい内的な動きも全てそれで良いと受け入れ切ったところに静寂はただ、在る。

無執着からの創造

伝える、という行為とは自他があるという前提の中でしか起こらないのだよね。だから、覚者は時に沈黙する。必要な時は勿論話をするけれども、無言以上に満ちた状態はないだろうと思う。無言の中に全てが在る。

 

そして地球時間でいうところの数年前には、今回のこの物質体でやるはずの事をある意味では全て終えてしまって、残りの人生は自由時間に任されている。選べることがたくさんあると同時に今が満ちていてもう充分だ。

 

何もしなくても穏やかな至福があって、全ては有っても無くてもよいが、強いて言うならこういう暮らしがいいなと思ってきたことは、全て物質世界に創造、具現化された。言うことがない。

 

しかし知って欲しいのは、具現化したものに対し執着がないこと、これが一番大切なことだ。“そこ”にしか至福はない。分かるだろうか?思考の介入しないところで、何にも執着せず、ただ瞬間を味わうのだ。

 

とはいえ、これまで何度もお伝えしてきたけれど真我覚醒しただけでは直ぐにそういう味わいはない。真我から生じた個は、ひとりひとり違う個性を有している。真我からもう一度個に気づいてあげること、個にあった環境や諸々の選択。選択し、構築したら、またそこで全ての執着を手放す。

 

真我か、個か、ではなくなる。

真我と個が同時に在るようになる。

自我が満たされることはない

自我を一時的に満たすばかりのスピリチュアルが蔓延している。一時的に満ちたような、やる気がでたような、幸福感を得たような、精神的に進化したような感覚になるそれらに、終わりはない。苦しみから脱却したくて、パッと見良いことばかり書いてある宣伝文句に惹かれて、沢山のセッションやセミナー、ワークショップに参加しては、いつか楽になると信じて参加し続け、散財してしまうという話を時折聞くことがある。

 

そもそも自我は満たされたまま永遠に幸せであり続けることはない。この仕組みに気づいて欲しい。

 

自我というのは何かに反応して変化してゆく流動的なものである。キラキラと生き生きとするような、良さそうなことを得たところで、反応して変化するという仕組みはそのまま有るのだから、日常に戻りその対象、事象に反応したら再び同じような心身の反応は呼び起こされる。

 

そこでまた苦しみを味わうから、楽を味わえるスピリチュアルな催し物に足を運んでしまうのだ。果てには自分が何か進化した人間になったような錯覚に陥って、スピリチュアルに目覚めていない自分以外の人間を見下したりしてしまうことさえあるという。本末転倒だ。

 

自我の働きの停止、無思考の中にのみ揺るがない安堵と平穏があることに気づいて頂きたいと思う。