幻想と表現と知恵

救いたいという心は

今救われていないという認識が前提にある

その認識が世界を創造しているカラクリを

気づくといい

 

最初から最後まで

終始全ては救われている

不足が幻想だからだ

 

でも

だからといってこの地球で

何もしなくていいということではない

身体が在るってことは

その個体でその存在を表現しなさいということ

 

表現というのは

ただそこに居て

内から湧き出るものを

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

 

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

その視点から

誰かに言動や行動で

出来る範囲で

無理なくなにかを差し出すとき

それは様々な循環をもたらすでしょう

 

 

 :

 

 

“なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること”

 

正しさや間違いというのは観念だけれど

対処の適正という知恵をそこに添えてこそ

観念フリーなその存在を活かすことができるのも事実だ

 私たちはそのバランスを知りに来た

 

例えば正しいも間違いも観念だから

ジャンクフードを毎日食べても大丈夫

というのは単なる無知だ

けれどジャンクフードは絶対ダメというのは

観念による緊張になる

 

物質的な制限を超えた身体にでも変容しない限り

物質の影響はある

 

食事のことだけではなく様々な側面で

環境 空間 コミュニケーション‥

物質と精神は繋がっていることを理解するといい

観念がないことと無知は違うのだ

正しいも間違いも観念であり幻想だけれど

そこで物質的な相互作用を無視してはバランスを欠いてしまう

 

観念から解放された上で

知恵を活かすこと

 

そこであなたは自由になる

そこであなたは循環を知る

 

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

 

それは

それぞれのバランスだ

そこにもひとつの正しさがあるわけではない

そのオリジナルのバランスを

知りに来たし

楽しみに来た

源からの分離を通して

 

もしあなたが今不足を感じるなら

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

をチェックしてみるといいよ

 

 くぅ。22日瞑想会,26日個人セッション(@kuujigen) - Twilog

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体験と循環

私とは何か。いつから私なのか。そんなことを十数年前に観察していた。私とは私を私と認識した時に私だと思えるだけだ。では認識しなければ?‥。

 


最初は理屈で紐解いた。理屈からして、私というのは認識でしかなかった。日常を送りながら、理屈で紐解いたそれをずっと考えていた。

 


その内、無思考は勝手にやってきた。無思考になって行く時恐れが湧いた。何かを掴んでいたものが離れて行くような感覚。手にしていた浮き輪が大海原で手から離れて行くような恐れが浮かんだ。しかし、無思考は思考では止められなかった。

 


手放すしかできなかった。そして、ある時友達の思考が入ってくるようになって、なぜ友達の思考が入ってくるのかと観ていたら、友達なのか自分なのか分からなくなって、境界線は徐々に消えていった。その辺りと平行して、色の無い世界を見たり、見たもの全てになる体感があった。

 


ドアを見ればドアになってしまう。床を見れば床になってしまう。どうしようというような感覚が湧きながら、この物質世界ではこの体に視点を留めなければと、意図して、意識が全てにならないようにした。

 


ある時決定的に、自我の全てが死んだ。私、は居なくなった。背骨に沿って絶え間なく至福のエネルギーが巡っていた。その状態のまま約半年が過ぎ、残った物質体を物質の次元で生かすべく、最低限の自我を構築していった。

 


そしてまた数年が過ぎ、その時点では、この意味のない事が繰り返されるだけの次元が嫌になっていた。意味がないのに、意味を捉えて反応をしなければならないそれに、真剣になることもできず、幻想だと分かっているゆえに心から楽しむこともさほどなかった。

 


ただ意味もなく居るだけなら、居ないのも同じ。別にいつ物質世界から離れてもいいなと、そう思う日が続いた。が、ある時そんな事を感じながらぼんやり床に目を落としていたら、やってきてしまったのだ。

 

次の段階の覚醒が。

 

床の端にちょこんとあったホコリをみて、私は泣いた。ホコリを創ることができたことに感動したのだ。その視点で周りの全てを見渡すと、それらの全てに、創ることができた、という感覚と感動がわいた。

 

宇宙の源のエネルギー、創造主(私なき私)から、世界が生まれた時の、なぜ生まれたかをそこで悟った。意味はないけれど、体験できる全ては愛となった。執着がろくにないのは変わらなかったけれど、執着なくただ今を体験する。それが全てだった。それは喜びであった。

 

意味などなくていいのだ。ここに在ることが全てだ。それは同時に今現れている全てへの全肯定だ。その視点で見ると、どんな観念があっても、それもいい。

 

だけど、そこで止まると、こういう話をシェアする気も実は起きない。全部変える必要がないからだ。一方で変わって行く全てもそのままそれでいい。

 

世界に参加するということは、何かしらのアクションや言葉を表現することだ。だからただ私は悟り、覚醒という話を書いているだけで、誰かを救いたいとか役目だとか、そういったことすら、源に溶けてしまった。それが宇宙の流れだから、とも言えるし、ただ現れているだけと、時折口にするのは上記の全てを含んでの事だ。

 

あなたが、あなたで在りたい形に現れたらいい。

 

そこにはこれまでの体験を選び続ける自由だってあるし、苦楽という二極の揺れを終わりにして行く為に内的観察を深めてもいい。物質的な世界での行為も、環境も、仕事も、関係性も、選びたいことを選べばいい。

 

そうして、物質体が在るだけ在って、宇宙の流れにそってその形を変える日も、やがて終わる日も、全てがそれでいいよ。

 

あなたはずっと愛だ。

好きなように、在るといい。

 

だけどひとつだけ書いておこうかな。あなたがあなたを許し愛するほどに、あなたは自然と誰かに優しくなる。特別なことをしようとしなくても、誰かに優しくなる。居るだけでいい。居るだけで必要なことはするようになる。宇宙っていうのは、地球っていうのはそういう循環がある。

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

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創造主

旅先にいます。朝6時20分です。

明晰夢を見たあとにパッと目が覚め、突き動かされるようにこうしてブログを書いています。

 

誰もが皆、宇宙の根源から生まれた存在ですので、本来は“居るだけ”で必要なだけその物質体(肉体)は生かされるようになっています。精神的、物質的不足というのは、各々で感じている思考感情の中にあり、またその思考感情によって新たに現実は創造され続けます。精神世界で度々言われる、創造主はあなたである、と言うのはこうした仕組みを含んでいます。

 

内観や感情解放のワークや瞑想によって、観念がクリアになればなるほど、精神的にも物質的にも現れている現実が楽になって行くのは、単純に苦しい考えをしなくなるからでもあり、また現実の創造のエネルギーとなる思考感情が変化することにより、現実自体に起こることが変わってくるからでもあり、そしてまた、本来ずっとそこにある宇宙の根源のエネルギーをせき止めなくなる分、その存在に必要なものは自然と与えられるような流れとなってくる。

 

現実は複雑そうに見えて、ほんとうに“(思考感情による)思いの通り”=“思い通り”です。あなたは何を考え、何を感じるのでしょう。◯◯でなければならない、と信じているのなら、宇宙は現実は◯◯でなければならないという事象をあなたに見せてくれます。その事象を見て、人は「ほらやはり思った通りだ」、とその事象に対してまた意味をつけ、付随して喜怒哀楽を感じます。

 

人間の思考感情の多くは、自分は、他者はこのままでは駄目だ、良くない、より良くならねば、と何かをジャッジメントします。◯◯では駄目だ、◯◯では良くない、◯◯より良くならなければ、と思う限り、駄目で、良くなくて、良くならなければならない現実を見ることになるでしょう。

 

それは当たり前に繰り返されてきた社会の刷り込みでしかありません。家庭でも学校でも、何かがよりできれば優秀だと教えられ続け、人間は素直にそれを信じてきました。素直により良くなろうとしたし、その積み重ねで無意識に今のままでは駄目だと考えるようになりました。

 

幸せになりたいと誰もが思うものですが、幸せになりたいと思いながら、今のままでは駄目だというそのエネルギーで創造をします。こうして望みながらも打ち消すような、アクセルとブレーキを同時に踏み続けてしまうような働きを、やめていくことができます。

 

まずありのままの自分を許すところから始まります。ありのままを許していくことは、受け入れることであり、それは肯定です。許し、受け入れ、肯定、のエネルギーから、創造した時、どんな現実となって行くかは察することができると思います。

 

人は自分を許せた分だけ、他者にも寛容になり始めます。先に他者を許そう、心豊かな人間になろう、と、自分が癒されていないのに努めては新たな苦しみを生むだけです。まず自分を許し受け入れるところから始まります。

 

内観という思考感情の紐解き以前に必要なのは、ただ悲しかった自分、ただ怒っている自分、ただ嬉しい自分、を感じきってあげることです。感情はどれも良いものでも悪いものでもなく、中立な視点から見るとただそうあるだけです。ただそうあるだけのエネルギーですから、感じきってしまえば終わります。感情の解放をしてから、内観に取り組むとスムーズです。

 

また多くの方は、言葉を変える必要があります。当たり前に使うネガティブな言葉を1番近くで聞いているのは自分自身です。言葉を認識し、それは思いとなり、思いは現実を創造します。

 

言葉を変えるという取り組みも、感情の解放が先になります。人は心の疲れや傷が癒されていなければ、新しい取り組みにも疲れてしまいますから。

 

内観も言葉を変えることも、感情解放の後です。

 

感情解放、内観や瞑想、言葉を変えるに加え、選びたいことを選んで行ってあげることも大切です。楽だったり、楽しかったり、ワクワクしたり、無条件に惹かれる方向や物を選んであげる。

 

上記は現実創造の仕組みの一部ですが、これらを繰り返し実践して頂ければ人は精神的にも事象的にも満ちる方へシフトしていきます。

 

本日も読んでくださってありがとうございます。

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

 

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ひとつのマルから

みんなになって

ひとつのマルから

みんなにみえて

 

境なんて

いちどもなかったのさ

 

でも

境がないから

境が見える夢を見たんだ

 

キミはずっとすべてだし

キミはキミを越えた愛なんだ

キミはキミを越えた神なんだ

 

あんしんしていいよ

夢をそのまま楽しんでもいい

 

夢を否定することないだろう?

夢の中で夢を否定する夢もいいけどね

夢の中で夢を広げたっていい

夢の中で夢を楽しんだっていい

 

あんしんしていいよ

泣きたいときには泣いて

笑いたいときには笑って

 

いつか夢から覚めたら

夢を愛するよ

愛せないときも

愛するよ

 

キミはずっと

そのままで愛だよ

 

キミはキミを許してごらん

あるがままを許してごらん

 

誰かと比べる夢を終わりにしてもいい

自分を責める夢を終わりにしてもいい

 

キミは好きなように夢を解釈できる

 

だってそうだろう?

キミが見る夢なんだ

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サマディー、悟りの段階。あるがままに。

なんの想念も浮かばないので、“何かを伝えたい”もない。

 

この記事も書かなくてもよいかなという感覚であった。

 

静寂の銀世界に、わざわざ足跡をひとつつけにゆくような、そんな動力が必要だ。

 

静かだ。

 

 

先日、インドの某アシュラムに長期滞在中の友人から、LINE電話がかかってきた。アシュラムで受けたアーユルベーダの徹底したデトックスの過程の話、エネルギーの話、インドで言う悟りの話等、色々な話を聞かせてくれて、そして時に意見を求められた。

 

私は、ツイッターのプロフィール的文章にはヨーガ用語や仏教用語なるものを添えてはいるがヨーガにも仏教にも詳しいわけではない。ブログの最初の方の記事でも書いた通り、ほぼ独学で内観や食事、行動言動を変えて行くことを徹底的にやっていたら、求めてもいないのに深い悟りがやって来てしまって、それを説明するための知識をつぎはぎのように集めて来たタイプなので、今でも知識としてデータがない部分もきっといくつもある。

 

一方で体験では一通り知っているので、専門的な用語がどういった状態を指すのか話してもらえれば、何を言われても ああ あのことか。とはなる。

 

知識は時に必要だと思う。だけど、最初に学ばなかったからなんの先入観もなかったのは確かで、知識がないから悟りに対する執着がゼロだったし、先入観も執着もないままに、当時やっていた事は本格修行者並みの暮らしぶりだった、というところで恐らく“悟りを妨げることができなかった”。

 

求める心を徹底的にしらみ潰しに滅して、与えるに徹していたら、その経過はまぁ苦しいものではあるが、あれだけやったら誰でも悟るわ。とは思う。今思うと多角的に自我が生まれる余地を与えなかったのだから、そりゃ悟る。

 

(悟りに至る道はいくつもあるので、この方法でしか悟らないということではありません。)

 

時折簡単に悟った人だと、特別な人なんだろうと勘違いして頂くことがあるけれども、そんなことは全くない。

 

ちなみに、言葉は乱暴かも知れないけれど、深まるとこまで深まったなら、悟りとか正直どうでもいい。悟る悟らないの差がないから。ふつうに、いつか肉体の寿命がやってくるまで、ここに居る。過ごす。体験する。それだけなのである。

 

人間はただそれだけに対して、何か意味を探したり、善し悪しの判断をつけたり、恐れを持ったりするから、時に苦を感じることになって(私は意味づけや恐れ苦もまた否定する事ではないと観る。そのように現れているだけだと観る。)、それらの心の動きから解放されようとまた相対性のないそれ、仏教で言ったら空、ヨーガで言ったらサマディーに、すべての本質に気づこうとする働きが起こる。

 

インドに滞在中の友人が電話越しに言う。

日本で(近年)言う悟りとさ、インドで言う悟りって、なんか違うのよ。日本て、ちょっと悟っただけでも悟りって言うけど、インドだとちゃんと悟りの段階があって、そんなちょっと悟ったくらいのものは悟りとしないのね、と話ながら、彼の目指すニルビカルパサマディーという段階の悟りについて話を続けた。

 

で、その会話をしたのも忘れて数日経っていたのですが、ふと思い立ちサマディーの段階について先ほどちょっと検索したのですね。

 

サビカルパ・サマディー……瞑想者の意識は神の中に融合し、その肉体は硬直して呼吸も心臓もほとんど停止した状態になるが、瞑想者は仮死状態の肉体を完全に意識している。

 

ニルビカルパ・サマディー……瞑想者がさらに高い境地に達すると、普通の顕在意識を保ったままで神との霊交を持続して、絶えざる至福を味わうことができる。最高の境地に達した大師(マスター、解脱成就者、如来)だけが経験できる状態。

 

私の2008年の悟り、サマディーは、ニルビカルパ・サマディーまじりのサビカルパ・サマディーだ。仮死状態と至福が同時にあったが、顕在意識は構築するまでなかった。

 

(悟りの瞬間、私という個人意識はないので、私の悟りという表現は方便でしかない。)

 

(1番最初に開いたお話会では悟った瞬間見るものすべて私だった、と表現したが、あれはほんとうに言いたかった所ではなかった。実際には私と感じるものも消滅していたから。それでもなぜあの段階を話したかと言えば、それを説明するにはもう一本二本ブログを書く必要がありそうだ。)

 

サビカルパ・サマディーから、もう一度相対性の認識世界を構築して、暮らしに戻って行ったのだが、当時は何が起こったのか把握していなかったので、手探りで構築したために、構築しなくてもいい部分もあったと今は思う。無駄な体験は何一つないから、あれはあれでいいけれど。構築してはまた紐解いて、ちょうどいい所を知る過程で、サマディーの段階、悟りは更に深まり、何の意味ももたない全てがなぜ現れたのかを理解した。

 

私は恐らく今ニルビカルパ・サマディーを3分の2も入った所くらいだと感じる。至福についてはまだらなので。そして至福とか段階とかどうでもいいのだけど、今回書くのが必然なので書いている。

 

そしてニルビカルパ・サマディーについては理解するし、分かるのだが、また一方で、このサマディーは肉体が物質の次元に残っているサマディー、悟りなので、私がこれまた入り口に入りかけている虹の体(ゴールドドラゴンボディ/女性の場合はゴールドフェニックスというようですね)は、インドの文献ではなんと表現するのだろうと少しだけよぎりました。が、それもまた気にはしていないです。気にしようとしまいと、必要なら知ることになるから。

 

虹の体は物質体が精妙な次元に移行して、または素粒子分解が起きて、物理的な次元からは見えなくなるのですが、そのまま物理的な次元に戻らない選択と、今一度物理的な次元に戻る選択があると思います。私が度々口にしている虹の体は後者なのですが、正直こちらも、何がどうあってもよいと感じているのが私の現状です。虹の体もなってもならなくてもいい。投げやりな意味では決してなく、何がどうでもそれでいいのです。なんていうか、毎瞬間をそれで良しとしているので、こういう感覚に落ち着くのですね。

 

結びの言葉が何も浮かびませんが、タイピングする手が止んだので、主要なことは書き終えました。

 

今日も長々と読んでくださってありがとうございます。

 

悟りと環境構築

何が起きた訳ではないけれど、幸せで眠れない。と、いうような事がたまにあって、今がそれだ。そして、ハートから溢れるそんなエネルギーを、誰かという“大きな私の一部”に分けたくなる。分けたいのは個人的な私から個人的な誰かにそうしたいのではなく、私が私の一部に渡したい。うーん。相変わらず地球語の表現は方便ではありますが。

 

 

そう、このこと書いておこうと思う。

あのね、目覚め(悟り)は自我の縛りからの解放ではあるが、それだけでは半分自由になったくらいなんだよね。私の体験からするとね。目覚めてずっと無我でいても許されるような環境に体が在るならまだしも、仕事をしていたり、人付き合いだったりを必要とする環境にある時、そういうものを私の個性に合わせて選択し直したり、または一から創造する必要があった。ここでいう私とは、全体と一体でありながら、同時に個人でもある、私。

 

個人の私がどういう環境にあるとき、より楽なのかをまず知る必要がある。悟った意識(全体と一体の私)であるとき、良いも悪いも考えの中に浮かばないので、何がより良いか、で選択するのは難しい。基準というものが消滅しているから。

 

でもそこからもう一度、物理的な条件として感じる良い悪いではなく、何がより楽か、を考察する必要がある。

 

私で言えば地球時間でいう10年くらい前になるけれど、とにかく好きなだけ1人で居たかった。1人で居る時が1番満ちていたからだ。“外界への反応”こそ、エネルギーが漏れ出る原因で、それこそが疲れで、とにかく反応をしなければならない環境から離れたかった(今は違う。1人も誰かと過ごすのもどちらもいい)。つまり隠遁生活をしたかった。1人山籠りが理想だった。

 

でも色々あって、それが実行できる条件になく、ある程度見せかけだけは社会に馴染みつつ、徐々に理想的環境を用意しようとしていた。その理想的環境に向けて何をしていたかと言えば、貯金であるw

 

働いては、貯金をし、休日は1人で山に居る、というパターンを当時は繰り返していた。極力人の誘いには乗らなかった。貯金をして何がしたかったかというと、私は大家さんになりたかったのだw

 

働かずとも収入があって、見せかけだけは人として暮らしを送っているように見える、これが大事だった。そういう条件を構築して、好きなだけ、1人で居るつもりでいた。

 

が、その構築過程も途中で息切れした。お金を貯めるだけに働いて、働いている間も人の自我のエネルギーでボロボロになり、どんどん疲弊した。

 

私の理想条件を叶えるルートを、構築し直す必要があった。

 

まずは、より楽な環境で働くこと。そして、大家さんになるには年数がかかりすぎると踏んだので、次に浮かんだ理想条件が、目覚めた私をも理解してくれる、適度に放っておいてくれる、心地よい誰かに養われることだった。結婚を通して隠遁しようという目論見だ。

 

そうこうしていくつか職場を転々としているうちに、長く働けそうな職場に当たった。業務内容も私に合っていたし、雇い主も職場の人間も、申し分なかった。これならずっと働けるぞ、と思っていた矢先、漫画のような展開でその会社が経営不振で潰れることになった。さすがにポカンとなった。

 

が、その頃同時に、目覚めた私をも理解する菩薩のような彼氏ができていたので(私にはもう自我から生まれる恋愛感情というものがありませんとかストレートに話しても、それでもいいですよと言ってくださったw)、すぐに彼と暮らす事になった。私が一方的に頼み込んだ訳ではなく、話し合って、私の貯金でアパートを借り、彼がその後の暮らしを面倒みてくれることになった。私はほぼ隠遁者だし、最低限の生活費以外は出費を出さなかったので充分に暮らせた。

 

その暮らしのまま一年が経った時入籍し、私は約二年間ただ家事と瞑想と自分へのエネルギーワークに明け暮れた。そこは東京にあるアパートであったが、誰も知り合いが居ない土地でとても気楽だった。

 

目覚めたあとの社会での疲弊が癒えた頃、Twitterで悟りの話を誰に聞かせるでもなくつぶやいていたら、それを読んでくださっていた方々にセッションをして欲しいとお願いされるようになり、自然と悟りについて伝えるおしごとをする人になった。あれから6年が経ったが、その途中で共に活動してゆく相方にも出会い。なう、だ。

 

ちなみに、悟ったらみんな隠遁者みたいになるかといえばそうではない。先にお伝えしたとおり、それは当時の私にとって、心地の良い状態であったということで、私のセッションを通して悟った方の中には仕事が好きで会社を経営されてる方等もおりますので、悟り=世捨て人 ということでないのは補足しておきたいことです。

 

 人は幸せになって良いのです。その為に内的探求をし、 自我から生じる様々な思考感情から解放されると同時に、遠慮なくご自身にとっての楽を選択、または創造して行ってほしいです。

 

ちなみに今では旦那さんも様々な観念から解放され、自由に暮らしています。共に活動している相方も。私の母も。

 

ハートから幸せエネルギーが漏れ出ているまま、明日の(今日の)おしごとにそなえ眠ることにします。あなたの宇宙(現実)もまた、幸せでありますように*・゚゚・*:.。..。.:*

 

今日も読んでくださってありがとうございます。

 

 

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最近読んだ本

この本、すごい。

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私はよくドライブをする。ドライブ中も無心である事が多いので、移動しても移動しても、実のところあまりリアルな感覚はないのだが、それでも景色が流れ行くのを見るのが好きだ。

 

ドライブをする時も、今私はどこへ行ったらより満ちる感じがするか、というエネルギーで選択する事が多い。行く前に行った先の自分のエネルギーを少し感じてみる。少し、というのがポイントだ。ダイレクトに感じてしまったら、行った先での体験を行く前から意識の中で体験してしまって、行った時にはもう、体験が半分くらい色あせてしまうから。知ってる事を改めて物理体で体験するだけ、って感じになる。

 

それでは面白くないから、私はこれからする体験の多くを知らないよう、地球時間の2008年に先が見える能力の大半を意図的に閉じてしまった。今なら上手にその能力も使えそうだから、今一度じわじわ開くようなエネルギーワークも時折している。

 

さてそんな前フリを経て、どこに行ったら満ちる感じがするかを少し感じたのち、先日夜のドライブで行った先は24時まで開いている本屋だった。

 

覚醒してからというもの、あまり本を読み切った事がない。読んでいる途中で興味が無くなったり、またはこれはこの著者の宇宙の話であって、私の宇宙とは少し感覚が異なる(間違いという意味ではなく)、このページの周波数で書かれてるものは入ってくるが、それ以外は目で追っても追っても入らない。つまり今私に必要ないものだ、と理解する。私の宇宙の気づきは私で知るしかない、という所に大体は落ち着いてしまって、読み切らないのだ。努力して読めるものではない。サイズの合わない靴がどうやっても履けないのと同じようなものだから。良いとか悪いとか正しい間違いではない、ただそういう事なんだ。

 

それでも、ごく稀にヒットする本に出会う。先日のドライブで行った書店に冒頭の写真で載せた本があったのだが、この本はごく稀にヒットする本の中の1つになった。

 

私がこれまで瞑想や日常の気づきで見てきた多次元感覚のほとんどが書かれていた(2割くらいは知らない事も書いてあった)。サイズの合う場所にスッポリ何かがはまった時のような気持ち良さを感じた。私は多角的に物事を観ていくことは得意とするが、それを理論的に説明できるスキルはここまでない。

 

ただ、こういった気づきを促すエネルギーワークと、気づきを妨げる観念を解く対話ができれば今は充分だと感じてる側面もある。

 

でも時々思う。沢山の気づきをブログやツイッター等の言葉で伝えるにはこの物理体では限界があるなって。それは決してネガティヴな意味ではなくて、中立な意味合い。膨大なデータを落とし込むのに構造や容量が足りないマシーンを見るような気持ち(笑)。

 

でもスマフォにはスマフォの良さがあって、黒電話には黒電話の愛らしさがある、くらいには自分を愛している(笑)。黒電話のが温かみがあって好きって人もいるから、まぁいいだろう。いやでも黒電話は言い過ぎかな。じゃあせめてガラケーで。‥えっと、何の話してるんだっけ。

 

(たまにこういう事をブログで書いたり話したりすると、黒電話なくぅちゃんが大好きですよ、的な事を本気で言われたりするが、うんゴメン。それボケたとこだから真剣にフォローされてもなんも言えない。って内心なってる芸人心をここに追記しとく。そしていつもありがとう。てか芸人てなに。私芸人じゃない。)

 

と言うわけで、覚醒からの多次元、物理学等に通じてらっしゃる方には読みやすい本かも知れません。これも合う合わないやタイミング等あるかと思われますが、ご紹介したいなと思いました。

 

本日も読んでくださってありがとうございます。

 

 

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