真我

私は誰でもないということ。

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個人的な“これが私”と感じている意識は、一つの葉がこれが私、と思っているようなものです。気づきによって視点が拡張してゆけば、私とは葉であり木全体であり、土であり水であり空気であり太陽だと気づくでしょう。境目なんてなかった。境目をつくったのは視点でしかなかった。

 

個人的視点、その意識が全体に溶け去ったら、ただ真我が現れる。

 

 

 

 

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ただ在るただ体験する

おはようございます。ブログの更新がしばらくお休みになっていました。ブログもツイッターもメッセージを書かせて頂いている時と言うのは自然と自動的に手が動くのでその流れに任せていましたが、この数ヶ月ブログに宛てるメッセージは浮かばないままでした。

 

真我から観ますと全てが今、それで良いし、変化させなければいけないものは何もなく、今でない状態を求めるのはマインドでしかありません。反対に言えば常に今を良しと受け入れることができたなら、人間が苦しむことはありません。

 

(それは物質的にどんなに酷な状態にあっても受け入れなさいということではありません。人間は本能的に暑過ぎれば冷ましたがるし、寒過ぎれば暖めようとします。環境や食事等についても同じことが言えます。物質体を粗末に扱って良い、という話ではありません。※本能の領域を超越する方法もありますが、エソテリックな話になるので割愛します。)

 

今であってはいけない、こうしなきゃいけない、そんな個人的な思想が発達した結果、思想、意見の食い違いが生じ、人と人は争うことに成功しました。個人の、オリジナルの“〜ねばならない”という思い込みの範囲におさまらなければ、それは間違ったこと、悪いこと、劣ることと判断しました。それは他者だけでなく、自分をも自分が設けたそれらにおさまらなければ裁き続けてきました。

 

 

それが全てマインドによる幻想だとしたら?

他者と自分という認識さえもマインドによる幻想だとしたら?

 

自他が認識の中で別れた時に、“それぞれの視点”が生じます。“それぞれの視点”なのだから、それらは同じであるはずはありません。視点の数だけ見えかたがあります。人間はその見えかたのどれが正しく、どれが間違いなのかを常に考えてきました。永遠に答えが出ないものを、出そうとしてきました。

 

どれも正しくなくどれも間違っていません。“ただそう在るだけ”、です。ただそう在るだけと、意味をつけることなく観ることができたなら、そこに苦しみは生じません。

 

 

幻想から目覚めたら、目の前に生じている幻想世界を俯瞰しながら体験しはじめます。自他という感覚の有無を同時に体験します。マインドの介入なしに喋り、行動をします。必要であればマインドを使うことも可能です。意味づけなく観ている時も、体験を楽しむための敢えての喜怒哀楽も、良しとしています。

 

幻想から目覚めたあと尚も生じている幻想世界に対し、意味が無いからとやる気が失せるようであれば、それもまたそういった認識、マインドだと気づく瞬間がやってくると思います。

 

真我からなぜ幻想世界が生じたのかふに落ちれば、幻想世界に対するやる気があるもないもなくなります。

 

ただ在る。ただ体験する。

 

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貨幣制度と純粋な望み

精神的な探求をされていらっしゃる方に貨幣制度がしっくりこない人は多いです。貨幣を用いずとも人間は生きていけることを知識的、感覚的に知っている人々は、どんなに内観しても受け入れがたい、という状態になったりする。しかし、何千年と愛や精神性について語られて来ても、貨幣制度がなくならないのはなぜか。

 

そこを観察していくと、貨幣制度を否定していても仕方のないことが見えて来ます。“否定するものは有り続ける”宇宙の仕組みに気づいてください。否定ではなく受け入れた先で、貨幣制度に対する精神的な縛りを越えますし、貨幣が有っても無くても精神には大差がないという所から貨幣を活かした時、見えて来るものがある。

 

好きな仕事をしてください。仕事をしたくないなら、したくない気持ちを受け入れてください。ご自身に向き合ってください。どんな現実なら心身が楽か書き出してください。そしてそれは現実化すると決めてください。

 

余談ですが仕事をしたくない、一生遊びたい、という人も、いざその現実が来た時に、しばらくすると今度は何かをしたくなったりします。人間は遊びもやりつくすと暇になってきて、何か新しい循環を起こしたくなります。自分だけ満ちていてもつまらない事に気づいた時、仕事をしたくなったりする。面白いでしょう?でも本当にある話しの一つです。

 

なんにせよ、まずあなたを知る事です。あなたの見る世界が、あなたの世界なのです。あなたの救い主はあなたです。

 

私はこの世は認識による幻想だ。ということをベースにお伝えしてきました。それはブレません。しかし、幻想は幻想だけれど、同じ幻想なら尚もある心身の感覚が、充足する幻想体験の方が好ましいと思うでしょう?

 

それは自我の欲以前に物質世界の仕組みからそう感じる、という事ができます。動植物を見ても分かるように、それらの進化は自我の働きを越えています。生き残ること、発展しようとする事は、自我以前の仕組みです。

 

生死というのは源なる意識、真我、空から見れば認識による幻想ですが、人間の体に認識があるとき、物質世界の自我以前の仕組みに沿う働きがある。生き残りたいし、発展したいのです。それは仕組みです。

 

(仮に私は真我覚醒したから生き残りたいも発展したいもないわ、とお思いになる方も、微細な領域ではその仕組み上にあるからこそ、今体が物質として在ります。)

 

ですからあなたは遠慮なくあなたを満たして良いです。それは欲を越えた働きですから、満たして差し上げて良いことです。

 

私は自我からくる欲を満たせと言っているのではありません。なぜなら自我からの欲は欠乏から欲しがっているだけだからです。欠乏を埋めるために何かを得ても、根底の欠乏は残っていますから、また同じ欠乏感がやってきます。欠乏をいつから感じているのか、その始まりをしっかり見、いかなるご自身も受け入れたところから、尚も残る望みを叶えてあげてください。

 

純粋な望みを、叶えてあげてください。

 

 

私は今自我からくる強い欲はありませんが、純粋に湧いてくる喜びにしたがって、“ただ知る”という宇宙原初の望みを叶えています。

 

私はこの個体から見える世界を楽しみます。美しいエネルギーの山や河がとても好きだし、オシャレなカフェで過ごすのも好きです。満ち足りたエネルギーや空間等を感じるのが好きなのです。

 

人によってはそれが音楽かも知れないし、絵を描くことかも知れないし、科学的なことかも知れないし、ただ家族と一緒に過ごすことかも知れないし、料理をすること、走ること、時に何もしないこと、かも知れない。

 

私は友達と話すことも好きだけれど、それと同じくらいに、一人きりで居るのが好きです。

 

私は自分が、人が、全てが自然のように常に一定ではない事を受け入れています。

 

そして全てがそれで良いのです。

 


取り留めもなく、言葉がやってくるままに書きました。書き出したときツイッターに投稿するつもりだったのですが、長くなったのでブログにアップすることにします。

 

読んでくださってありがとう。

 

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初めからここに

私たちは肉体を持った初め

 

源と一体でした

 

そこにはまだ“自分”と“自分以外”という認識がありません

 

無我とは身近なもので

 

皆初めはそれそのものなのです

 

“悟りは外には無いですよ”

 

というのはそういう事です

 

最初から無我だし悟りだし源なんです

 

源なる視点に沢山の認識を重ねた時に

 

やがてそれは観念と呼ばれるものとなります

 

それはただ

 

連鎖した反応です

 

行為や観念を良し悪しで測ったとき初めて

 

そこに善悪優劣が生まれます

 

源そのものに

 

何重にもかぶせてきた観念

 

認識を一枚一枚解いていったなら

 

玉ねぎを剥いて剥いて剥き続けたときに

 

中心には何があるでしょうか

 

それと同じようなことです

 

中心の

 

源なる

 

神なる

 

命そのものである

 

永遠のそれは

 

外にはありません

 

あなたが新しい何かに成ることを

 

得ることを

 

悟りと呼ぶのではありません

 

ずっとそれそのものでした

 

そして

 

それそのものは

 

生きてもいなければ死にもしない

 

永遠なるそれ

 

なのです

 

永遠なるそれから観ると

 

全ては認識を重ねた幻想であると腑に落ちます

 

そしてまた幻想は幻想であっても

 

それを軽視することも無視することもなく

 

源から派生した

 

体験のツールとして

 

楽しむことさえできるでしょう

  

私とは

 

あなたとは

 

認識の連鎖です

 

私とは何か

 

それを観察して紐解いた先に

 

源は現れました

 

初めからずっとここに

 

あったもの

 

 

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日光を散歩

 

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ほんとうのあなた

ほんとうのあなたを生きるには

ほんとうのあなたに一度還るしかない

なんの制限もないあなたに

 

あなたはほんとうの自分を

思考で探していたけれど

思考の無いところに出会えるのが

ずっと在った 愛そのもののあなた

 

それは慈愛や慈悲に満ちている様とはちがう

対象に向けられた愛ではなく

ただ 愛

 

ほんとうは知っている

ずっとそうだった

今もここにある

 

あなたがずっとここにある愛から離れたのは

あなた以外になろうとした働きによって

今より正しいことがあって

今より悪いことがあって

より優れた人になって

そうなれないと劣った人になって

存在には優劣があると思ってきた

あるがままの自分を置き去りに

今でない何かに成ろうとした

そうすればいつか幸せになるとさえ思えた

 

今幸せになればいい

今あなたを受け入れたらいい

今の連続でしかないものを

今までと今とこれからがあると思い込んで

常に今しかないのに

 

今以外を追う心が

苦であることに気づく時が来た

 

あなたはあなたに受け入れられるのを

いつも待っているよ

 

 

 

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全容

観念すら愛である。

意識が進化したとき、観念もまた愛に見えるから、そう言った面でも苦はなくなる。観念とは、宇宙の循環の一部の働きなんだ。

 

観念によって体験し、観念によって喜び、観念によって縛られ、観念によって己を見つめはじめ、観念から解放される。その全容は源(空、真我)から見れば幻想と言えるが、源から発生した原初の意である私は私を知りたいというそのエネルギーが在るのはまた事実である。ただ体験し、ただ知り、私という源のその愛を拡張していくこと、それは全てだ。

 

そしてそれは目指すものと言うより、体験しては、常にここにあるものという確認によって、自然と拡張する。それは木がその年輪を重ね深めるようなものだ。この世は幻想なのか?答えはyesでありnoだ。幻想ではあるが、在るのもまた事実だから。難しいことは考えずに、望んで叶えて、満ち足りて、その執着を手放せばいい。

 

人間は得たら掴んでいないと幸せが維持できないという勘違いを起こしている。存分に体験したら、しつくしたら、それは四季のように移ろいでゆく。その自然のサイクルに乗りながら、あらゆる面で循環し、私という個人でありながら全体であるその愛を知る。

 

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幻想と表現と知恵

救いたいという心は

今救われていないという認識が前提にある

その認識が世界を創造しているカラクリを

気づくといい

 

最初から最後まで

終始全ては救われている

不足が幻想だからだ

 

でも

だからといってこの地球で

何もしなくていいということではない

身体が在るってことは

その個体でその存在を表現しなさいということ

 

表現というのは

ただそこに居て

内から湧き出るものを

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

 

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること

 

その視点から

誰かに言動や行動で

出来る範囲で

無理なくなにかを差し出すとき

それは様々な循環をもたらすでしょう

 

 

 :

 

 

“なにかひとつの正しさや間違いがあるという

そんな幻想に従う表現ではなく

あなたの感覚に従って

ただ そう在ること”

 

正しさや間違いというのは観念だけれど

対処の適正という知恵をそこに添えてこそ

観念フリーなその存在を活かすことができるのも事実だ

 私たちはそのバランスを知りに来た

 

例えば正しいも間違いも観念だから

ジャンクフードを毎日食べても大丈夫

というのは単なる無知だ

けれどジャンクフードは絶対ダメというのは

観念による緊張になる

 

物質的な制限を超えた身体にでも変容しない限り

物質の影響はある

 

食事のことだけではなく様々な側面で

環境 空間 コミュニケーション‥

物質と精神は繋がっていることを理解するといい

観念がないことと無知は違うのだ

正しいも間違いも観念であり幻想だけれど

そこで物質的な相互作用を無視してはバランスを欠いてしまう

 

観念から解放された上で

知恵を活かすこと

 

そこであなたは自由になる

そこであなたは循環を知る

 

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

 

それは

それぞれのバランスだ

そこにもひとつの正しさがあるわけではない

そのオリジナルのバランスを

知りに来たし

楽しみに来た

源からの分離を通して

 

もしあなたが今不足を感じるなら

“認識の前提による創造

感覚に従う表現

物質世界での知恵”

をチェックしてみるといいよ

 

 くぅ。22日瞑想会,26日個人セッション(@kuujigen) - Twilog