欲求を手放す

期待がなければ、裏切られることもない。

期待の裏には“望んでいる結果”があり、望んでいる結果にならないときに人はその様を裏切られたと解釈するだけだ。

 

怒りも同じ。望む反応が返ってこなかった時に腹が立つだけだ。悲しみも同じ。

 

 

思い通りにならない苦しみを手放せばいい。

思い通りにしたいという欲求を手放せばいい。

 

 

“楽になりたいから、内観する。”

これは楽という結果を得るための内観だ。それは欲求だ。“楽になりたい”も手放す先に、結果に囚われない楽があるのだ。それは苦楽という二極の内の楽ではない。苦も良し楽もよし何もかも良しの楽だ。

 

結果に囚われず内観し、結果に囚われず行動し、結果に囚われず言動し、結果に囚われず静寂の中に在ればいい。“静寂に在ろうとする”のではない。騒がしい内的な動きも全てそれで良いと受け入れ切ったところに静寂はただ、在る。

無執着からの創造

伝える、という行為とは自他があるという前提の中でしか起こらないのだよね。だから、覚者は時に沈黙する。必要な時は勿論話をするけれども、無言以上に満ちた状態はないだろうと思う。無言の中に全てが在る。

 

そして地球時間でいうところの数年前には、今回のこの物質体でやるはずの事をある意味では全て終えてしまって、残りの人生は自由時間に任されている。選べることがたくさんあると同時に今が満ちていてもう充分だ。

 

何もしなくても穏やかな至福があって、全ては有っても無くてもよいが、強いて言うならこういう暮らしがいいなと思ってきたことは、全て物質世界に創造、具現化された。言うことがない。

 

しかし知って欲しいのは、具現化したものに対し執着がないこと、これが一番大切なことだ。“そこ”にしか至福はない。分かるだろうか?思考の介入しないところで、何にも執着せず、ただ瞬間を味わうのだ。

 

とはいえ、これまで何度もお伝えしてきたけれど真我覚醒しただけでは直ぐにそういう味わいはない。真我から生じた個は、ひとりひとり違う個性を有している。真我からもう一度個に気づいてあげること、個にあった環境や諸々の選択。選択し、構築したら、またそこで全ての執着を手放す。

 

真我か、個か、ではなくなる。

真我と個が同時に在るようになる。

自我が満たされることはない

自我を一時的に満たすばかりのスピリチュアルが蔓延している。一時的に満ちたような、やる気がでたような、幸福感を得たような、精神的に進化したような感覚になるそれらに、終わりはない。苦しみから脱却したくて、パッと見良いことばかり書いてある宣伝文句に惹かれて、沢山のセッションやセミナー、ワークショップに参加しては、いつか楽になると信じて参加し続け、散財してしまうという話を時折聞くことがある。

 

そもそも自我は満たされたまま永遠に幸せであり続けることはない。この仕組みに気づいて欲しい。

 

自我というのは何かに反応して変化してゆく流動的なものである。キラキラと生き生きとするような、良さそうなことを得たところで、反応して変化するという仕組みはそのまま有るのだから、日常に戻りその対象、事象に反応したら再び同じような心身の反応は呼び起こされる。

 

そこでまた苦しみを味わうから、楽を味わえるスピリチュアルな催し物に足を運んでしまうのだ。果てには自分が何か進化した人間になったような錯覚に陥って、スピリチュアルに目覚めていない自分以外の人間を見下したりしてしまうことさえあるという。本末転倒だ。

 

自我の働きの停止、無思考の中にのみ揺るがない安堵と平穏があることに気づいて頂きたいと思う。

真我からの知恵

真我から見れば全ては幻想だが、物質次元で過ごすには物質次元の扱い方、その知恵は必要だ。

 
例えば全ては幻想だけれども、火の扱い方は知っていた方がいいでしょう。火は火で良くも悪くもなく中立にただそう在る性質のものだけれど、扱い方によっては創造にも維持にも破壊にもなる。

 
精神探究が必要となるのは、人間は思考が優位になって自他に対するジャッジメントに縛られ過ぎて、自他のその存在の自由を奪っているからであって、思考自体はツールとしては悪くない。

 

(精神探究の必要性の中には更に言えば人間の根本的部分、生死に対する執着や恐れについて等も含まれるがここでは割愛)

 
火をどう扱おうか判断するのは思考だし、全て幻想だと完全に腑に落ちている状態、真我から思考や感情を使ってあげることは、それなりに大切なことだ。

 

火を例えにしたけれど、判断は日常に溢れている。社会で過ごすというのは判断の連続だ。

 
物質次元を扱う知恵すら真我に溶け去っていると、日常では少々バランスを欠いた状態になってしまうこともあるから、真我覚醒したら真我からどうその個体を在るか、という探究が始まる。

 
真我から見れば火も私もなく、全ては溶け去り、ひとつを超えたひとつだ。ひとつすら認識しないひとつだ。そこには自他もない。全ては統合されている。統合されているから、判断する対象がない。このように分離がないとき、静寂と満たされた状態がただそこに在る。そこから再び様々な場面で知恵を使ってゆく。思考に縛られていた状態から、思考はツールとして使うようになる。

 

探究の順次としては、先ずは真我覚醒を経て全ての認識が幻想だったと目覚め、

 
全て幻想だけれど、なぜ幻想が生じたのかを知り、

 
真我からその個体を物質次元で過ごす時、物質次元を扱う知恵を適切に使ってあげる、

 
ということになる。

探究

人間は執着と愛情を混同してしまうことがある。

 
内的探究を深めて行くと執着は薄らいでゆくが、その時人は好きだった人や好きだったことへの関心が無くなるような感じがして、寂しく思い、好きという気持ちにしがみつきたくなることがあるかもしれない。

 
しかしこの時、執着が苦だということは充分に分かっているから、どんなにもがいても結局は好きという傾きも嫌いという傾きもない、ニュートラルさへと帰還する。

 
目覚めとは、興味関心を失う事ではなく、興味関心の対象と自分との間に距離が無くなることだ。見ていた対象と自分は溶け去り、“ただ在るそれ”が現れる。自他に対する反応は完全に幻想だと知る。

 
しかしここで終わりではない。ニュートラルな視点でありながら、尚もある物質体を通して、幻想と知りながら幻想を体験するフェーズに入る。最初はぎこちないだろう。以前と感覚が違うから。そのぎこちなさの中で生じる心の摩擦を再び観察して行く。

 
幻想なのに、体験しなければならない、そんな抵抗が一度や二度生じるかも知れない。しかし、その抵抗すら幻想であると分かっているから、この辺りで気持ちのやり場を失うことがある。が、それでも尚、観察を続けていると、真我から生じた幻想を深く肯定する目覚めがやってくる。真我と幻想の間に、距離がなくなるのだ。

 
この物質世界での体験をより気楽に体験できる。目覚めとは覚醒とは悟りとは、無思考の静寂も、人間としての表れの全ても良しとするものだ。それは理屈ではない。思考で分かるものではない。思考を超えてただそう在るものだ。

 
真我に意識が溶けている配分が多いと、確かに様々なことに無反応である。何も生じていないからだ。無思考であり、静寂であり、時に至福だ。

 
しかし先に書いたように、一方で人間としての表れの全ても良しとして、個人意識を体験することもできる。真我から再構築した個人意識だ。個人であり同時に全体である意識。真我と個人を同時に体感している意識。

 

 
喜怒哀楽はエネルギーであり、体験のツールであり、どんな感情に良し悪しもないと知る時、瞬間を楽しみ、瞬間を純粋に苦しんでみることができる。苦しみを肯定しながら苦しむということがある。ちゃんと苦しんであげるとき、またそこにアルケミーが起きて新たな私の一面が開く。そしてまたハートは開くのだ。この時苦しみとは問題ではなくなる。

 
こういう意識の時、純粋に、本当に純粋に、対象を愛でることもできる。執着なく、ただ在る存在を愛でることもできる。

 
愛でることができてもできなくても問題はないが、人間として物質体がある時にだけ体験できる素晴らしい体験のひとつだと思う。

 

 
余談ではあるけれど、昨年暮れに小型犬を家族に迎えた。目覚めてから犬と共に暮らすのは初めてだが、存在を愛でるという意味では人生の中で今が一番純粋に体験できている。

 
執着を交えた濃い感情ではないが、ただ在る存在が素晴らしく、時に感謝が溢れる。添い寝してるだけで毎日爆発的にハートが開くので、動物が発しているエネルギーは凄いなと思う。

 
同時に犬と私という相対的な認識が真我に溶けている時もある。こういう多様性を体験している。

 

 
また、最近あるきっかけがあって、長年乗っていた軽自動車から外国車に乗り換えた。非常に状態の良いものであるが、巡り合わせで軽自動車くらいの価格で購入したもの。

 
納車して翌々日くらいに大雨だった。視界が悪いと同時に夜であったこと、慣れない車の大きさであったことが重なり、家の庭に駐車する際にホイールの側面を段差でガリガリと擦ってしまった。気に入って購入した車だが、全く気持ちは平坦で、静かなままだった。

 
昔の私なら色々な思考が巡ってしばらくガッカリしていただろうが、そういうことが一切ない。無執着というのは、まぁ、こういう時楽ではある。ただ起きたことを意味づけなく“ただ観る”、だけ。全ての物はいつかは朽ちる。それが遅いか早いかだけ。それが腑に落ちていれば後悔は生じようもない。しかし無執着と、大切にするしないは別であるから、この後駐車に慣れるまでは慎重さを持ったけれども。

 

 
度々口にすることだけれど、真我覚醒は決して特別な事ではなく、誰もの本質であるし、言葉では表し難いことでもあるし、また当たり前のことでもあるために、近年では中々snsに書く気持ちが起きないというのが正直なところで、そういう時私は何をしているのかというと、ただ日々の瞬間瞬間を、ただ味わっているだけなのだ。ふつうの、ふつうの人間として、ただ暮らしている。しかし同時に探究はもはや暮らしの一部なので、探究をしていない日もない、という。相変わらず真我からの物質、非物質についての探究をしている。

 
なので、なんというかsnsで人がご飯の写真をアップしているくらいの感覚で、私にとっては当たり前のこととして、探究や覚醒のことを今後も書いたり書かなかったりするのだと思う。


そしてそれが目に止まって、興味を持たれた方に直接お伝えできるひと時があって、そういう時間は理屈ではなく循環として素晴らしいな、ありがたいな、と感じている。

 
何のまとめもないけれど、覚醒と暮らしの話があったら10年前の私は読みたかったなぁと思い、今日は書ききってみた。

 
長々と読んでくださってありがとう。

真我からの個として

言葉というもの自体が

真我からの分離を創造するツールなのだ

りんご

と口にした瞬間

りんごとそれ以外が表れる

ひとつだけを表現することが

言葉のある世界ではできない

ひとつ口にすれば

必ず“それ以外”が同時に創造される

 

全ては本来一続きのもので

何も分かれてはいない

全く分かれてはいないのだ

 

だから真我に個人が溶け去るとき

そこに言葉は生じない

聖なる沈黙

全てを包括する沈黙

 

沈黙の中に思考が生じないのは

思考自体が言葉で成っているからだ

言葉という分離は真我に溶け去る

言葉が無いとき思考もない

 

 

しかしながら

現代社会に身を置きながら

真我に溶け去った状態で

どのように 暮らしていくのかが

真我覚醒後には大切になってくると思う

真我から見れば全てが幻想である

幻想を幻想と知りながら如何に過ごすのか

それが大切になってくる

 

言葉というツールを使い

認識し 認識を重ねて あらゆる角度から意味づけ

人は自ら意味をつけて来たことに 心揺さぶられ

翻弄されてきたけれど

それが 全て幻想である と見抜きながら

この社会の幻想を過ごすという

そういう矛盾を 真我覚醒だけでは

受け入れがたい 意識状態になることがある

誰が何を口にしても 幻想に過ぎず

そこに付き合うことの無意味さに

疲弊してしまうから

 

 

しかし 真我覚醒の後に来る覚醒があることを

知って置いて欲しい

この幻想世界を そもそも生んだのも 真我である

そう気づくとき 幻想体験を 深く肯定するから

世界は真我の表れだ

 

真我から生じた人としてのその個を

どう在ってもいい

どう表現してもいい

どんな環境にいてもいい

ただ 選べばいい

 

真我から表れた

真の個を

ただ 体験する

それ以上でも

それ以下でもなく

それは全てだ

 

やがて真我と表現の境はなくなる

 

そこでは自我を否定することもできないだろう

 

真我と自我という極ではなくなるから

 

真我がただ現れていてそれを認識しているのが五感だ 

 

真我は真我だけでは真我を表現することもない

 

五感は表現だ 五感は認識だ 

 

真我の表現の一部であり 真我の認識の一部だ

 

肉体と真我は統合され

 

肉体は真我に溶け去り

 

また現れる