選べるのか選べないのか

体験を選べるのか、選べないのか。 

 

スピリュチュアル界でよく言われる話だけどね。

 

5次元から見れば3次元として体験できるパラレルを選べるよ。で、5次元の選択と3次元の選択は連鎖してるから、どっちが先かなんてないよね。同時に起こるから。

 

そして5次元で何を選ぶかは、5次元を俯瞰している意識、またはデータの連鎖によっても決まるだろうから、“3次元の自分”ていう意識が選べたか選べなかったかを考察するのはナンセンスなんだ。

 

だから“3次元の自分”が選びたい事を選べばいいよ。難しい事考えずにね。

過去世という概念とパラドックス

私はこれまで、時に過去世を語る場面があったが、それは地球のスピリュチュアルで多く語られる過去世と言う感覚とは違う。

 

なぜなら私の中には過去と未来がないからだ。
過去がないなら過去世と言う言葉は方便になる。

 

そして同時にこう言い表すこともできる。“個人が存在しない”なら“誰それの”過去世も存在しない。
だから地球上で言う過去世という言い回しは方便だ。

 

地球で言われている過去世というのはただその瞬間に表れている、または連鎖しているエネルギーデータの事だから。私もあなたも“言葉ある時に”存在していると、“見る事ができる”。誰かの体感や経験があると、“見る事ができる”。

 

しかし存在していると見る事ができるこの次元、この世と言われているそれが実在すると信じる視点の割合の方が多い時、その集合的な視点にある程度の同調をする時に物理的に表れた身体と呼ばれるそれは存続しやすい可能性に満ちるから、実在しないものは実在していると仮定されたそこに合わせるのだ。

 

合わせない選択も勿論ある。合わせる合わせないの選択をする個人はそこに存在しないけれど。合わせない選択がなされた場合には、そこに言葉はない。語るものが居ないからだ。

 

この合わせるという行為は実はスピリュチュアルな表現にさえも縛られる。なぜなら人の思考は共通した言葉でしか理解できないからだ。

 

人間は言葉を合わせたがる。同じ言葉でないと違うものだと認識するからだ。そして違うものを時に裁こうとする。

 

言葉があるから、正しさを求めてしまうが、言葉がなければ正しいも間違いも存在しない。

 

言葉を合わせたがる意識によって、結局言葉を越える事がないから、スピリュチュアルな教えでさえ歪んで伝わるのだ。言葉の奥を拾うものだけが、それを知るだろう。しかし知るその時に知る個人は存在しない。

 

そんなパラドックスに混乱しなくなったとき意識は混乱しなくなる。実在しないがしているとされる次元を混乱しなくなる。

 

混乱こそ苦だ。

 

混乱しなければ苦は無いも同じだ。

しかしその視点である時には同時に苦とする視点さえ良しとしている。

 

混乱がないっていうのはそういう事だから。

 

 

 

もっと言ってしまえば過去世だ概念ださえも、全部良いんだよ。言葉遊びがこの表れている次元の表現ならば、理解できるできないさえ良いんだよ。

 

ここまで書くとまた語る事がなくなっちゃうけれどね。

 

すべてが無いと同時に

 

表れてる全てを良しとするとき

 

そこに苦は存在できないよ。

 

幻影

わたしは
わたしは
何者でもない

 

あなたは
あなたは
何者でもない

 

すべては
認識
すべては
解釈

 

解釈に
解釈を重ねて
何かを判断し


時に
あれは良い
あれは悪い
あれは正しい
あれは間違い

 

無常の視点を
頭や
胸や
腹に
巡らす

 

その視点は
すべて
わたしではない

 

その視点は
すべて
あなたではない

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すべてを内包するもの

不思議なことは

それが稀なことだから不思議なのであって

常なるものとなったとき

それは不思議でもなんでもない

 

例えば

スマフォをね

江戸時代に持って行けたとして

そこで誰かに見せたなら

江戸時代の人は魔法か何かだと思うかも知れない

神の仕業だ!

ってね

 

現代ではもう

当たり前のようになっているでしょ

不思議でもなんでもない

 

私はこの身に開いた能力の話を

ブログでもTwitterでも書いているけれど

それは不思議なことでも

特別なものでもないの

すべての人間が本当は潜在的に持っているもの

 

そしてそれらの能力を開くも開かないも自由で

開いたから良いとか悪いとかもない

 

開いたなら開いたなりに

たくさんの事を学ばなければならないし

 

昔の私は単純に

色々見えたらどんなにいいか

って思っていたけど

 

見えるってことは

人間の素晴らしい部分も

そうでない部分も

丸ごと無条件に受け入れるということ

 

受け入れるキャパを養うには

やはり自身の精神的成長が必要になる

探求が必要になる

 

拒否感がなくなるまで

心を洗わない限り

見えるって事は時に苦しみだろう

 

見えるっていう慢心も捨てなきゃならない

特別な存在

誰かより優れる存在は

どこまで行っても居ないって事を

しっかり知らなければならない

 

 

また

悟り=能力が開くということではない

悟ってもなにも見えない人も沢山いる

超人になる訳ではない

至ってふつうだ

 

いいや

能力が開いたって

至ってふつうだ

分かるかい

 

私の  能力

私の  力

私の

私の

 

そういう我をすべて捨てるがいい

 

そう

そんなの他の事も同じ

私のもの  と思って

それを掴みつづける時

人は苦しみを体験できるのさ

 

分かるかい

分かるね

そうさ

 

 

山と蜂と様々な領域の視点

河原にいる。今年4月、東京を離れてある場所に引越しをした。30分も車で走れば山の中に入れて、綺麗な河が流れている。ひと月に何度か私はこの河原に1人でやって来て、

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今日の午後、ここまで書いたときにある事が起きた。その体験をここに記す。



 


「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」そう聞こえた。

 

河原に車を停車して車の窓を開け放していたら、大きな蜂が車内に入ってしまった。蜜蜂ではないようだ。私の目の前をブンブンと羽を鳴らして飛んでいる。私は蜂のいる位置を見届けた後、そっと車外に出た。刺されたりはしなかったが、さて困った。

 

こう言う時は面白いものだ。内面は静かであるのに、表面ではどうしたら蜂が車外に出て行くかと試行錯誤する。帰りの車に蜂が御同行では困る。蜂は私を試すようにフロントガラスの近くでじっとしていて、クーラーの風が当たる位置に留まっていた。

 

私はそっと車内に手をのばし、エンジンをかけた。窓から出て行きそうに見えたのでクーラーの風力をマックスにし風で煽ってみたが、それでも蜂は少し体の位置を変えただけで、そこに居るままだ。車のガラスに張る日よけシートでパタパタと煽っても、動かなかった。

 

私はどうしたものかと考えた末、私の背後にたたずむ木に蜂を車外に出すにはどうしたらいい?と聞いた。木は幼子に微笑むようなエネルギーで、蜂ごときでそんな様子では‥、と優しく答えた後知恵をくれた。

 

その知恵にしたがい日よけシートを丸めたまま、その先端を蜂に近づけると、蜂はよじよじと日よけシートに登った。登ったのを見届けると、私はそのままシートを車外に出して、蜂を逃す事に成功した。

 

その後車に乗って全ての窓を閉めると同時に、雨が降り出した。私は河原の土の上に停車した車がぬかるみにはまらないよう、その場を後にする事にした。

 

そして山道で聞こえてきたのが「お前が蜂と一体の時、お前は蜂を、コントロールできる。」だった。それは原理は分かるのだが、私は虫と同化するのはそんなに得意ではない。その昔様々なものと物理体の制限を超えて一体となる体験をしたが(空の一体とはまた違い、様々なものの視点になりそのものを体感する)、一体になると、場合によってはその物の構造まであらわに見えてしまう事がある。虫の構造まで見える場合、割とグロテスクだったりする。昆虫マニアにはたまらんかも知れないが、私は別の意味でたまらんのだ。

 

無我の境地でそれを体感するなら、グロテスクという判断も、それをあまり見たくないなということも消滅するからまだいいのだが、私は別に今無我になりたくない。

 

で、蜂をコントロールするには他にも方法があるのを知っていた。それは愛を持ってお願いすることだ。車外に出て行ってくださいね、と。しかし、これもまた充分に気をつけないと、逆に好かれてこちらに来てしまう。(この件についての観察とエネルギーコントロールがいまひとつなのは分かっているが、探求する気も特に今起きない)何度か虫についてはそういう事を経験しているから、今回は物理的な対処を木に聞いて事なきを得た。

 

すべてと極限まで一体なら、それは神そのものの意識と同じであるから、神の内にあるすべては意のままになる。それは知っている。そういう体験をしていた時期もあった。

 

私はその時思った。永遠に意図した事だけが目の前に表れるだけって、つまらんな。と。1人で次の瞬間なにが起こるか知っていても、なんのリアクションも生まれない。知ってた事が起こりました、以上。なのである。これは面白くない。

 

人間の体を通して何かを体験するとき、色々な事を知らないというのは体験ギフトだとそこで感じた。人間の体験は未知だから面白い。

 

なんのオチもまとめもありませんが、今夜はこれで。いつも読んでくださってありがとうございます。感謝します。


P.S.山はほんのり紅葉し始めました。

 

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意識の可動域

‪時々、数ある悟りの話の中でもご自身の体験を綴っている方はすくないので、興味深く読ませてもらっています、というお声をいただく事がある。‬

 

‪私は人は自然と気づく力があるのを信頼しているから、そして何より私は2008年に悟った後の暮らしが手探り過ぎて、先人たちの悟り後の人生がどうなったかの方を知りたかったから、体験を書いているのもある。ただの自動手記の時もある。‬ただ、あるがままでいて、見たい人が見たいように見て、何かを気づくタイミングで、気づくだけだ、という委ねた視点でブログを書く。普段はもう、それすら考えていない。野花や草木がそこに咲くように、ただ私は私で在るだけだ。

 

‪無我の境地に入ったら、ずっとそのままなのか?っていう疑問を、現代では晴らしておかないと、悟り後の俗世に居ながらにして悟った多くの人にとって苦しみになってしまうだろう。

 

‪ずっと無我でいるかどうかっていうのは、その後の環境によりますよ。無我じゃまず、対話ができないのだから、仮にできたとしても一般の仕事は無理です。人里離れた1人でいられる環境でないと、ずっと無我ということはないです。

 

‪俗世にいる場合には、意識はグラデーションのように、可動域が必要になります。つまり、あなたと私が居ると認識できる意識と、居ない意識の使い分けです。‬

 

そこに混乱しなくなった時、どんな意識状態でも良しなんだと腑に落ちている時、それは何より安らかでしょう。

 

対象無き空も、空から形となったすべても、すべて良い。一貫して伝えたいのはこれに尽きます。

 

珍しく本日2回目の更新でした。

 

 

 

ありがとう。

 

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変化

至福に溶けそうになりながら、人間の体を通して地球を体験するのは無常だと思う。すべてが移ろいでゆく。ずっと一定であることは何もない。

 

人生の乱気流を抜けたなら、多少の向かい風が起こる日があっても、大体穏やかでいられる。苦しみの波に飲まれてどうにもならないことは、起こらなくなってくる。

 

そういう中にいる。

 

それでも、人間である以上予想もつかない事がまだまだあるんだな、と私はこの数日嬉しくもあり、しかし執着もしない、体験者と俯瞰した視点が同時にある中で、ただその様を見ている。味わっている。

 

数日前、昔から世界中を旅していて、近年はよくインドに行っている友人(目覚めびと)から話を聞いて、富士山の麓で開かれたヤグニャと呼ばれるインドの儀式に2日間参加してきた。

 

私はこういったことに、良くも悪くもない意味で興味がわかない人間であったが、なんとなく今回は行ってみようと思った。

 

なんでも、日本に自然災害が多いので、供養と平和の祈りにお坊さんがやってきてくださったのだという。

 

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3日間の内早朝から昼過ぎまで、中日は夜の部もあり、休むことなくマントラが唱えられる。楽隊の賑やかな音楽が奏でられ、会場にはなんともいえないインドのお香のような、燻された香りが立ち込める。ギーと言われる油と薪と様々な植物が燃やされる。

 

私はこの人生で儀式や修行みたいな事に縁はなかったが(自己流ですべてを観察して悟った)、何千年も続いているインドの教えに基づいて真摯に祈りに向かう姿や、その音や空間のエネルギーの清さに、私はただ目を閉じて瞑想していた。瞑想していると、普段1人で行うのとはまた違った領域に気づく。気づくし、知らなかった面の理解が起きたりもした。

 

私の瞑想は、今ある自分のエネルギーを調整すると同時に宇宙の成り立ちを観察するような瞑想に自然となる。度々サマディに入って、全体に溶ける時間を交えながら。

 

沢山の発見があった。

理解が深まった。

 

私は魂の記憶の中に、何度も形を変え布教していた感覚があって、古き良きやり方はもう充分だし、それに宗教性の在り方が時に真理を歪めてしまう(神を自分の外に見るやり方が場合によっては意識上に分離を生んだり、崇拝になってしまう場合があることを懸念した)から、その辺りを今世の最初の悟りの後に、そうではないと伝えに来た感覚があった。あなたと神は同一であり、上も下もない。その部分を強調するために、俗世に居て、見てくれは一般の人間でどこにでも居そうである事が大切であったのだ。悟りは限られた人間にだけ起こるものではなく、布一枚まとっただけの、修行者や僧侶にだけ起こるものではなく、こんな感じの人間が悟るもの、という集合意識に対して、そんなものはすべて概念なんだ!そう伝える為にここに居た。だから、私自身はまったく伝統的なやり方には入っていかなかった。

 

時に懸命に信仰しているタイプの人間からは、なんてやつだ(信仰の対象を冒涜している)と思われたこともあったが、なんてやつだと思うその心を是非観察して頂きたいと思っていた。それはあなたの解放だからだ。

 

私は一度も、なにも冒涜していない。冒涜は冒涜と感じるものの中にある。信仰すら超えなければあなたはあなたの本当に知りたかった所に、出会いはしないのだ。そんな風に世の中を見ていた。

(勿論信仰する自由もまた良し、と思いながら。すべての道に、体験に、誤りはないから。)

 

だけどきっと、何らかのサイクルが穏やかに終わりを迎えたのだろうな。ただ1つのものに向けて、儀式をするってとてもいいな!儀式自体と言うよりは、エネルギー的にとても良い、と感じた。

 

すべて良しのこれまでのゆるゆる自由さも、真摯に一点に向けてエネルギーを捧げるのも、全部良い。

 

今回のヤグニャを教えてくれた友人が、冬になったらまだインドに行って、洞窟にこもって無言行をやろうかなと言っていて、ちょっといいなって思ってる。それはいつかどこかの私がやりたかったことでもある。やらなかったことでもある。

 

ここ最近、地球での私の在り方に変化の予兆がある。大体どうなるかは見えているが、まだ3次元に繋げる部分がはっきりと見えていない。やるだけ、なのかもしれないが。

 

私は私の行く末についてなにも約束しないし、約束した所で無常には逆らえない。ただ確かなのはもっと自由になってゆくだろうこと。自由に限度はない。

 

これを読んでいらっしゃるあなたがもしも、不自由さの中にいるなら、しっかり自分を観て、やりたいことをやっていってほしい。あなたはあなたを楽しむために、そこに居るんだ。あなたの体験を、あなたの思考の制限で狭めぬよう観察があって、無常の中を思い切りそれぞれの形で楽しめばいい。

 

 

 

ありがとう。

 

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