しっくりくる選択
目覚めたとき(悟り)、すべては認識したことに思考感情で意味をつけただけの幻想であった。と、体感した。
それは私と言う個人に起こることではなく、個人が消えた時に思考を超えたそれが知る。
知るというよりは、最初からずっとそうであった。
いや、最初も最後もなかった。
個人もなければそれは生まれも死にもしなかった。
すべては“そう認識したとき、そうである”だけだった。
さて、こうなると悟り後に在る、体を通して体験される世界は益々あるがままに突入してゆく。
すべてが幻想なのだから、わざわざ苦しい体験に飛び込む必要はない。
わざわざ好きでもないことをする必要もない。
好きも嫌いも認識ではあるが、悟り後にも“ちょうどいい湯加減”があるように、ちょうどいい環境ちょうどいい人間関係は各々にある。仕事も、生き方も。
そしてそれは常に一定とは限らないから、感覚が変われば遠慮なくまたしっくりくるかんじを選択しなおせばいい。
執着はいらない。都度、そのようにあればいい。
思考から来るどうした方が良い、悪い、ではなく、なにがこの体を通して体験されるにあたり、しっくりくるかを選択の基準にすればいい。
勿論ろくに自我のないまま流れるようにただ日常を流れているだけもよろしいが、なんどかTwitterでもブログでもお伝えしている通り、先進国社会においては判断、選択という智慧も時には大切だ。(ブログではNOと言うことも愛だというような表現で書きましたかね…)
日本国社会においてはとくに、我慢してでもやり遂げることが素晴らしいだとか、みんながやっているからそうする、とか、はみ出してはいけない、とか、そういったすり込みによる幻想の強い国であるから(←すり込みが強いことも良いでも悪いでもなくただそうであるというだけ)、
自分の楽を選択したり、しっくり来ること、ちょうどいい感じを選ぶこと自体が恐怖であったり、勇気がいる人がとても多い。
私もみんなと同じにしたいのにできない、もしくはしなければならない、我慢ができないことがダメな事、という意識が強くあった時期が長い間あったので、その気持ちも分からないではないが、
シンプルに聞こう。
人の目を気にして、幸せですか?
誰かのお眼鏡にかなったとこで、永遠と次の人のお眼鏡にかなおうとし続けるのだから、幸せが人に認められること基準であるうちは永遠に窮屈だね。
誰かに認められても人間はそれぞれ違う価値観を持ち合わせるから同じようにふるまっても他の誰かには認められないし、しかも認めてくれた人の視点だって無常に変わる可能性がある。
教わった基準、誰かの基準ではなく、人生を、毎日をその心身にしっくりくる選択に変えていく勇気をまず持つこと。
そして、自分の自由を許すと同時に、誰かの自由を許してゆくことで、窮屈な体験を終えてゆくことになる。
すべてが良くも悪くもないなら
すべてが良くも悪くもなく、すべてが認識の幻想なら、何をしてもいいのでしょうか?
戦争や人殺しもよいですか?
こんなご質問を受けた事がある。
覚者の段階によっては、それすら認識、何も起きてない。と言う。
そして覚者のこの話ですら良し悪しはないのではあるが、
決定的にこの悟りに抜けているのは、物理世界の理、もしくは自然界の連鎖のバランスを観ていないことだ。
悟っても体はそこにある。
悟っても殴られたら痛いし、暑いも寒いもある。
戦地のど真ん中に体を放り込めば、DNAからくる本能で逃げるだろう。
(まぁ、何か信念を強く持ち 身をもって無抵抗の真理の教えを貫く僧侶等ならまた話しが変わってくるがここでは少し脱線するので触れないでおく)
本能からくる苦痛を受けた時に、どういうエネルギー影響が起こるのかを観れば、意識上に良し悪し、善悪がなくとも、全体という生命体についてのバランスも考慮していくことになるはずだ。
地球全体が、地球内にあるものが、仮に自分の体そのものであったなら、どうだろう。
一口に悟りと言っても、意識の有り様や世を見る角度、語る時の視点、表現はちがう。
どれが良いも悪いもないが、それを見聞きするあなた自身が、どう在りたいかしかないのだ。
答えは頭の中にはない。
あなたは、そのボディを通して観る世界を、どう選択すると、満ちるかんじがするだろうか。
あなたはそのボディを通して、あなたを知りたくて、そこに在る。
私に師はいないが、2名ほど日本人でゴールドドラゴンボディ(虹の体)に至った覚者を存じており、その方々の御言葉には頷くものがある。
彼らの言葉のひとつに
悟るとこの世は幻想と分かりますが、しかし幻想の世界が存在しているのもまた事実です。
と、いうものがある。
幻想だが、しっかり在るこの物理世界を、どう生きるのか、どう過ごすのか、それはとても大切なことだ。
あなたは あなたの すべてを知りたくてそこにボディを具現化した。
あなたのボディは宇宙の流れに必要で完全でそこに在る。
すべてが、それでいい
精神世界もスピリチュアルも、しばしの間肉体を通して体験される世界が、満ちたものであるようにとのきっかけだ。
— くぅ。 (@kuujigen) 2016年8月14日
散々悟りについて語っていながら、どういったことだろうと感じる方も中にはいらっしゃるかも知れない。
私は悟りを、良いとも悪いとも言っていない。悟った方が良いとも悪いとも言っていない。
物理的な次元において、万人にとって良きことというのは存在しない。万人にとって悪いことというのも存在しない。
先進国の社会の教えは、答えを導き出すこと、より良くなること、到達することがベースだから、その刷り込みにより、人は○○の方が良いのか、悪いのかを常に導き出そうとする。悟った方が良いのかそうでないのかと言う思考に発展する。
すべてにおいて“こうでなければならない”はないのだ。
昔の覚者(悟った人を指す言葉だが、正確には悟りとは個人を超えた意識のため、覚者という誰かを指す言葉もまた方便なのである)は、自我、観念、エゴを汚れだと言った。
時代背景により、そのように強い表現で伝えてゆかなければ伝わらない人々の意識が存在したことが一つの理由だろうと感じる。
もしくは悟りの段階が、自我を否定する意識が残っていた段階であったか。
源のみを悟ることを、非二元、または一元意識と表現することもあるが、その先にまだ悟りはある。
宇宙の源であるその一つのエネルギーは、なぜこの認識幻想の世界を生んだのか、それを体感する悟りの段階がある。
(何度も言うがこの悟りも良いとか悪いとかなにかより勝っているとかそういったことではない)
ここを悟ると、観念すら、エゴすら、源である神であるそれが知りたかったのだ。と、理屈を超えたところで分かる。
こうなると、別にだから悟らんでもええわ。と、言う視点に入る。
だがしかし、パラドックスだ。
悟らんでもいい、があるなら、悟ってもいいわけだ。
私は非二元から更に悟りが深まると並行して、悟りを伝えるのを何度か止めようと思ったことがある。
その度に、それは悟ったからそう思うだけではありませんか、聞かせてください、という御言葉を誰かから頂く。
何回かそれが続いたことと、それを否定する自我がないこと、なにをしていてもしなくとも“それでいい”という全肯定の視点から、残るものだけが残って、今も悟りとその意識で世を生きる智慧について伝え続けている。
ブログの広告で出るヒーリング等のご案内は…
ブログを再開してから数日、たくさんのアクセス件数に感謝しております。読んでいただいてありがとう。
今、気付いたのですがブログ記事のトップにヒーリングだとか解放のワークの案内の広告が表示されていますが、
私のエネルギーワークや会とは一切関係がございません。
はてなブログのサービスの一環のようです。
お間違えのなきよう、お願い致しますね.。.:*・°
言葉はきっかけ
それを今しかないって、先人は表現したんだと思うよ。でも、もっと言ってしまえば、今も認識だから、今すらない。
— くぅ。 (@kuujigen) 2016年8月13日
とにかくね、言葉に引っかかって訳が分からなくなるようなら、全部忘れた方がいい。答えなんてない(答えを掴むのも思考だから)んだから、キミが今どうあるかだけでしょう。」
続いてこうも話した。
私はね、私のTwitterでさえ、読んでこんがらがるくらいなら読まない方がいいって伝えてるの。
友人は笑った。
でも、ほんとそうなのよ。
言葉が気づきのきっかけになるならよいけれど、言葉に縛られて思考がぐるぐると回ってしまうようなら、それは本末転倒なの。
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友人に話したことは、すべての方にお伝えできることだ。
スピリチュアルや、精神世界系の本やブログやYouTube等で、思考に思考を重ねていないか、よく観察して欲しい。また、読んで知った気になって、エゴが増長していないか観察して欲しい。
私は幸いにも悟りと言うものを知らずに、様々な人生体験をしている内に、ただただ人間の幸せとは心次第であると気づき、己を縛りつけているその心がどうなっているのか観察に観察を重ねた結果、求めてもいないのに悟りが勝手に表れた。
ただ、それだけである。
どんな人の言葉もただ、きっかけである。
誰かの言葉が“正しい”のでも“間違って”いるのでもなく、それを見聞きしてあなたは何を感じたのだろうか。
悟りは 言葉にはならない 9
悟り後の在り方を観察して
私は この体を通して体験される小宇宙が
とても幸せになった。
たとえ、ふと 日常で些細な心の動きで苦を感じても、
好きなように無我にも入れる。
そこに苦は継続できない。
この世は神の 体験場であるが、
なるべく翻弄されずに、体験を楽しめるといいね。