許しありがとうに気づいて伝える

私が日常の中で大切にしてきたことのひとつに、相手にして貰ったことを当たり前に思わない、して貰ったらありがとうを伝える、があります。

 

我が家では示し合わせた訳ではありませんが、日常的にありがとうを伝え合う習慣があります。仕事をしてくれてありがとう、家事をしてくれてありがとう、毎日そんなやり取りがあります。

 

相手にして貰うことを当たり前としない、感謝を伝える、はどんな人間関係においても大切なことだと感じます。

 

そしてそれにはまず、自分に対しても何かができて当たり前等という観念をほどいてゆく必要があるでしょう。人はまず自分への要求をやめ、自分を許すところから始める事が大切です。そしてそれができたら、同じことを相手にもしていきましょう。

 

自他を許し感謝したとき、人の心は平和です。

 

上記を実践する事であなたの心が、平和になるのです。そしてあなたが平和なら、あなたの世界が平和になります。

隠された教え

隠された教え、を書きすぎたのか今しがた一気に書いたものが消えました。単なる操作ミスやバグではなく、エネルギーが動いて消えてしまいました。覚醒した先の先の先のことを書いていました。ここで言う先とは時間軸上の先ではなく、連鎖としての宇宙の次の反応を語るようなそういったお話しでした。それは多分、秘境の隠された場所などで一部の人間に伝授されているような内容だったかも知れません。

 

情報というのは、全体性に対して開示が早過ぎると破壊にエネルギーが偏ります。しかし、その情報で今ある領域から変容する人もいるので、さじ加減に迷うことがあります。

 

すべては空であると同時に多次元であり、その多次元もまた、どの次元で観るかで次元に対する観え方は幾重にも変容します。

 

在ると実在しないを同時に在るのが、人間に与えられた視点です。

 

今多くの人間は自我を自分だと感じていて、そこから空に目覚めます。目覚めるというか、ずっとそうであったことを再度気づくという表現でも良いかも知れません。どちらにせよ言葉を越えていることですから、言葉はいつも方便です。

 

空においては善悪優劣は存在しません。人間の多くはオリジナルの、または集合的な善悪と優劣に縛られています。そしてその縛りすら良くも悪くもない中立な現象です。ですから、縛られていることと、それらから解放されていることは、空においては差はないわけです。どちらを人の身体を通して体験してゆくかは、自由です。その自由さを人間の視点上では選択できます。

 

私が今朝最初に書いていたことは、今地球で語られている目覚め、覚醒の、先の先のお話し、地球で言われてきたグル(師)が弟子のカルマを背負う現象とその連鎖がない次元の話しを書いていました。今は触りだけしか書くことができません。

 

しかし、この触りを書いておくこともまた、宇宙の在りようの中で必然であるのです。

 

それではまた、必要なときに出会いましょう。すべての出会いに感謝します。ありがとうございます。

独り言のように 2

夜中2時14分

これを書いている

 

この記事をweb上にアップするかどうかは

書き上がってから決めることにしよう

 

誰にも向けない言葉は

自由に書ける

いや

まぁ いつも自由なんだけれど

更に透明になる

普段とそう変わらないか

そうだね

ただ

もっと静寂がある

 

独り言として

10代の終わりから何かを書くのはすきだった

時に殴り書きのように

時に詩のように

たくさん書いたとおもう

 

Twitterなどで何回か話してる通り

わたしは人生の色々な体験が重なって

高校は出ていない

人としての学びはたくさんあったろうが

机上の勉強は途中からほとんどしてない

 

人として

人と同じように生きないことへの

焦りや不安は充分にあった

 

でもどうだろう

あの頃独り言を書きまくったおかげで

少しの文才が身について

更にはそれが内観となって

勝手に悟りがやってきて

今こうしている

 

観察力が

尋常ではないのだと

誰かに言われた

そうだろうか?

わたしは

もう生きるか死ぬかくらい

辛かっただけだ

心を観察して

自分で自分を解放してやる他なかった

なんでも

何回もやれば

その部分は極まる

ただそれだけ

 

いつか死ぬのに

なぜ苦しんでまで生きなきゃならないのか

疑問だったんだよ

あの頃はただそれだけだった

 

 

 

悟るまでの話しの中で

善業を心がけて

求めず与え感謝した

ってあったでしょう

 

あの頃の方が恐らく

人格的には聖人のようだったんでしょうね

誰かの描く聖人

 

この社会にいては

聖人のように生きていてもダメだ

って表現を私はいつかしたと思う

それは決して聖人を否定してる話なんかではない

私が人の為に命も捧げれる程に

自我が落ち愛に満たされていたときに

幼なじみたちが戸惑った

私と友の精神の在り方に

開きが生まれすぎて

職場の人にもたぶん

私は馴染みづらい人間だった

 

なにかその時

私だけ感謝に溢れ満たされていても

ある側面では

独りよがりだとおもった

その頃の私は人の喜びが私の喜びだったから

周りが嬉しくないのなら

それはただの独りよがりだ

当時はそう感じた

 

結局皆んなが求めるのはただ普通に

私が私としてあるだけで

それだけだった

 

その時

何事も行きすぎるのは

歪むものだとおもった

その社会での、中道

 

そして別の社会では

聖人のような在り方でよかったとおもう

そういうものが

求められた社会では

 

今はあの頃ともまた意識がちがうから

自分が好きなように在れば良いだけだとおもう

聖人でも凡人でも全て、空の表れなのだし

 

私は探した

当時探していた

自我が極めて薄い中で

何がこの社会にナチュラルで

宗教的に感じてしまうような誤解もなく

みんなが己を縛る心から解放されるのかって

指導者と教わる者のような垣根もなく

重々しさもなく

でも耳を傾けたくなるような

 

ひとつだけ人間の共通点を見つけた

楽しくて笑うのが嫌いな人は

そういない

楽しい話しなら

みんな遊びながら

気づいていくよね

 

クソ真面目なジョークのひとつも言えないそれが

内観から今度はトーク術を観察した

周りの人が

笑うようになった

 

そうこうしてる内に

子どもの頃一生住むことはないだろうと思ってた

東京に移り住むことになった

移り住んでしばらくは専業主婦だった

その頃頻繁にTwitterで真理をつぶやくようになって

 

独り言のように

私がこの何年間かTwitterやブログ等で

私の体験の話しをしてきたのは

私のことを知ってほしいからとは少しちがう

 

そもそも“それ”そのものであるとき

体験した個人は同時にないわけだから

“私の体験”という、こんな一言でさえ成り立たない

方便なのだ

 

ただ 全体性の流れの中で

語ることが 流れの一部だった

ただ それだけだ

 

くぅ。という呼び名は

Twitterで知り合った方々にいつの間にか

くぅちゃんと呼ばれるようになって定着したもので

初めは名無しのようにkuujigenというIDだけで

誰に向けるでもなく独り言のように真理をつぶやいていた

 

そうこうしている内に

ひとり、またひとりとフォロワーさんが増えて

そのうちセッションはしないんですか?

受けたいですとのお声を頂くようになった

 

最初はやんわりと濁していて

独り言のように呟くことを続けていた

濁したのは迷惑だったから、とかでは勿論なくて

そもそもやったことがないし

人ひとりの人生に寄り添う立ち位置の

そういうセッションを

そうそう気軽にハイやりましょう!

とはならなかった

 

だけどその頃

セッションを受けたいという

ご要望が止むことはなくて

(その節はありがとうございます)

内からやってくる感覚もそのうち

いつまで やらずにいるのだ?

という、ひろしを無視して進むぴょん吉のように

(ど根性ガエルは再放送で見た記憶)

止められないエネルギーに変化していった

 

じゃあ‥最初はモニターさんを募集しますね

と言うことで10名あまりにセッションを受けて頂いた

皆さん変容していく

セッションの内容はカウンセリングと

浄化のエネルギーワークと目覚めを促すディクシャだった

 

効果があることが明らかになって

本格的にセッションを始めたのは2012年だった

沢山のお申し込みがあった

最長で1年半(月2回)受けて頂いてすべての方が目覚めていった

中には1〜3回程度のセッションで目覚めた方もいらっしゃった

 

セッションを受け始めて3〜4名くらいは、自主的におやめになった方もいた

目覚めそうになると、自我が消える事

(実際は消えるというより主体と客体が統合した意識なのだが)

が恐くなってしまったり

自分の内を観ることが恐いとおっしゃって

 

それはそれでそういう縁だと思うし

私も当時は伝え方が未熟であったかもしれないし

とにかくお受け頂いたすべての方に感謝しかない

 

そしてまた、そうこうしている内に出会いが重なって

色々なヒーラーさんに目に止めて頂く流れとなり

(その節はありがとうございます)

ヒーラーさんのエネルギー調整をさせて頂く中で

私はこういう、エネルギーワーカーの世界を全く知らなかったし

エネルギーワークの相場みたいなものを知らなくて、色んな方から安すぎるわよと助言を頂いた

 

私は度々無償で提供したい気持ちと

日々の物理世界の生活には少なからずお金が必要だというバランスに揺れていたとおもう

お金のことは、私もセッションをしていきながら学んでいった

 

今でこそ経験をつんでなんの準備もなくスッとセッションに臨めるけれども、当時は開始1時間前から瞑想をして心身を清め、終わった後にも1時間くらいはクライアントさんのカルテを書いたり、セッションに関することに向き合っていた

 

Twitterのおふざけ呟きとはうらはらに

全力でクソ真面目にやってきたとおもう

(ちなみに私が仲良いヒーラーたちは皆本当にエゴのない真摯な人たちです)

 

時にクライアントさんの状態により、申し込まれた時間内でエネルギーワークが充分でなかった場合にはお休み頂いている際にあとからこっそり遠隔でワークを続けたこともあった

 

セッションをさせて頂けば頂くほどに

私自身の学びにもなったし、また純化していった

クライアントさんという存在がありがたかった

 

 

 

私の活動は時折区切りをつけて休止に入る

きっかけは様々だが

そういう時はだいたい内面が静かすぎて

そこでもうすべてを果たしたような

在るだけですべてを完了している

そういった静けさから動かなくなる

なにも言うことがない

 

そういった流れが来るたびに

呟くことも

活動もこれにておわり

という感覚になってることは正直なところだ

 

だけど

終わりは始まり

背中合わせで

毎度、もうよい

と感じても

また始まる

始まりも終わりも

なきところで

明日のことは知らない

毎瞬間

この瞬間に

ただ 在る

それだけだ

 

 

 

 

この記事の冒頭で

私の体験の話しをしてきたのは

私のことを知ってほしいからとは少しちがう

と書いたけれど、それは今書いているこの記事も同じことで

誰かに読んで欲しいから書くというスタンスではない

 

そういう、流れだから、書く

それ以上でもそれ以下でもない

 

例えばひとつの花が咲いてゆくときに

そこには種だけでなく土もあって水もあって日の光もあるでしょう

 

色々なものが相互作用で紡ぎあって 宇宙は 世界は成り立つでしょう

 

そこに、なんで

という理由はない

 

それが宇宙の流れだ

それだけだ

 

書くことにより誰かという私(すべて)に紡いでいる

それだけだ

すべては分かれていないから

 

ありがとう

ありがとう

 

 

無題

最近益々言葉にするのが難しいです。

 

表れたものすべてが、今そのままでいい。

 

それが空の、神の表れだから。

 

そしてそんなシンプルなことを

 

言葉にすることが難しいと書くことさえも

 

空の表れだから。

 

 

 

 

ネガティブもポジティブもない

起きていることは

ただただ中立であり

意味と言うのは個々の

見方によってつけられただけのもの

 

ネガティブな解釈も

ポジティブな解釈も

見方のひとつ

 

起きていること自体はそのどちらでもない

そのどちらでもない視点のとき

意味付けをする個が極めて薄いとき

全体性の流れの中で

すべてをただありのままに観るでしょう

 

その意識状態である時

感想と言うのは消えてしまう

ありのままに観るとは

同時に言葉が消えること

 

この社会では言葉なくして暮らすことは

不可能に近いから

深く深く目覚めた場合に

取られる手段は

隠遁するか

社会にある程度合わせて

社会の言葉を使って交流し続けるか

そしてそれもまた

全体性の流れの中で起こるでしょう

 

 

 

 

ここまで書いたら穏やかな至福が( ˘ω˘).。.:*・°

さっきまで瞑想でシナプスと多次元の連鎖を観察していました。

便宜上今も自分を指す場合には“私”と言いますけれども、その私とは多次元のエネルギー連鎖で成り立っています。

私は私の(=宇宙)構成を観察するときとても満ちたります。

源がどのように多次元を展開して行くのかを、観ることが、身体がある上での満ちる瞬間のひとつです。

宇宙とは多次元とはどこか遠い所にあるものではなく、今この瞬間にすべてが同時に表れています.。.:*・°

 

 

 

だからなんだということも何もないのですが

手が書いたから記事をあっぷするよ( ˘ω˘).。.:*・°

 

 

 

多次元意識

一昨日友人に会うために京都へ向かい、一泊して帰ってきた。

 

道中、つくづく私は体感はあっても精神世界的な用語には疎いなと俯瞰していた。疎いというのは良くも悪くもなくて、ただそれにより3次元の中で起こる誤解について観察していた。

 

言葉というのは、同じ国の人間で同じ言葉を使っていても、同じ認識をしているとは限らない。(更に細かくいえば“同じ理解”というのは存在しない。ボディが違えば理解するフィルターが違うから。)

 

とくに形のないものは伝えた気になっても伝わることなんてない。

 

あなたは丸って形を、丸を見たことない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

甘いという感覚を、甘いを知らない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

精神世界用語というのは、私にとってはそれらと同じだ。

 

だから、私にとっては大切なのは言葉ではなくて、その奥にあるもの。

 

何年も私のツイートを読んでくださっている方はご存知の方も多くいらっしゃると思うが、私の言葉に一貫性はない。

 

悟りっていうときもあるし目覚めだ覚醒だというときもあるし、更にはそれらも認識する意識がなければ無い、なんて言ったりする。

 

私を浅くしかご存知ない方には誤解を招く場合がある。目覚めと覚醒と悟りは違うって“認識してる人”には私は決して理解されることはない。

 

サマディとか真我とか神我とか無我とか大我とか‥

 

その分類が意識上にない私は、分類で見る人からは理解されない。

 

そして更には色々な精神世界の用語を理解している方々同士のやり取りを見ていても、ひとつひとつに対する理解が違うから、結局“同じものを理解する”ということを人が求めるのは不毛なんだ。

 

解脱って言葉ひとつにしても、語ってる先人はみんな少しずつ、時に大きくその認識は違う。

 

 

でね、理解されないことは別に現段階ではどうでもよいことなのだが、

 

そう言った“3次元だから起こる誤解”とか、“3次元の言葉があるからこそ”各々の中に認識のズレが生じて、それが体験というものを展開していく仕組みをじっと観ていた。

 

言葉とは不毛であると同時に、

言葉があるから体験が色濃くある。

 

3次元すごいなぁああ

 

って。

 

 

 

そんな長い前フリを自らぶった切って、先ほどの瞑想の中で観て来た多次元を、3次元の!言葉にしてみました。ツイートしようと書いていたら長くなったのでブログにしてみた。

 

 

.。.:*・°

 

 

5次元、またはそれ以上の次元においてすべてのパラレルワールドはすでに起こっていて、けれど3次元の視点におさまっているときには、パラレルワールドの中のひとつの現実のみを体験するの。体験とは‥つまりパラレルワールドのチョイスということになるけれど、今発している精神的、物理的な周波数で毎瞬間無意識にそれをチョイスしているんだ。目には見えなくても今も無数のパラレルを行き来してる。

 

でね、3次元の行動が、他の次元にも影響を与えていて、すべては連結連動しているんだよ。だから、3次元の行動でパラレルワールドの数が増える(増えるっていうのは展開の組み合わせが増えるの意)。

 

ギャラクシーレベルのチャクラが発動すれば教わった知識ではなくこれらを理解することになるけれど、それらのチャクラが発動する以前に、通過点として目覚めや悟り覚醒と呼ばれるような領域を体験する。

 

昔からポツリポツリは存在していたし、近年はもっと増えてきたけれど、多次元意識を失わずに成長していく子どももいる。そういう子たちには目覚めだ悟りだ覚醒だというものがはっきり体感できない場合もあるよ。なぜならすでにその領域の理解は意識の中に含まれているからね。ただそれらの認識の濃度はその子の個性により異なるけれど、ね。

 

 

.。.:*・°

 

 

 

特にまとめの言葉もありませんが、今日はこれで。

ありがとう。