悟りは 言葉にはならない 5
悟りを表す言葉がないのに
悟りを伝えるパラドックスに
色々調べたところ
現代で悟ったと言う人のいくつかの文献を見た。
悟りの瞬間、全部が私でした…!
とか書いてある。
ふむふむ、私すらいないが、全部私と言うのか。
それが、ないものをあらわす言葉なのか。
赤子同然のそれには、他に考える余地もなく
方便として、すべては私だと言うようになった。
しかし、私がぼちぼちTwitterで名が知れたころ、悟りたてのどっかのおっさんが、言い出した。
すべては私なんて言って、この方(くぅ)の悟りは甘いですよ。
本当の悟りの瞬間は、見るものと見られるもの、ただそれだけで、個人はいないんだから。
と、私の当時のブログをリンクして、人に語ってるのを目にした瞬間、
めんどくせぇ
そう思った。
そんなことは、とうに過ぎてんですよ。おじさん。
純粋な人、無知な人は、そうなんですかとただおじさんの話しを聞いていた。
めんどくせぇ。
めんどくせぇも方便だけど、めんどくせぇ。
悟りは 言葉にはならない 4
母は言った。
そんな訳ないじゃない。
悟りなんて、もっとこういうおじいちゃんが、なるやつよ。
………
だから、おじいちゃんもあなたもわたしもいないのだ
どうしたらいいのだ
それから、私の布教活動(笑)はぼちぼち続く事になる。
しかし、すべては采配ではあるが、彼女が母で助かった。
頭が狂った扱いをされつつも、こちらに起こったことを、時間をかけて理解しようと努めてくださった。
後に、彼女もまた悟ることになる。
悟りは 言葉にはならない 2
宇宙の源から、もう一度生活に戻るまでは中々大変であった。
正確には、大変と感じられる個人意識がないから、なんと言い表したらよいのか難しいところではあるが、
何もなき源から、分離を作ることは
ただの独り言でしかなく
永遠に自分で自分に話しかけるパフォーマンスでしかなかった。
だって、誰も居ないのだ…!
しかし家族には、その個別の肉体を自分だ、誰だと感じる自我があった。
だから、こちら(こちらとあちらはないが)に話しかけてくる(話しかけてくるという認識も成立しなかったが)。
無我でただ、家族を見つめるこの体に、梵天は言う。
返事をしなさい。
そして この体になにが起こったか、話して行きなさい。
悟りは 言葉にはならない
この数年の間に出会ったあるヨーガ行者がいる。
何十年とハタヨーガを実践し、稀少な虹の体(ゴールドドラゴンボディ)に至った行者だ。
彼は話しの中で言っていた。
「人間は肉体の死の瞬間、人生を走馬灯のように見ると言います」
悟りと言っても、この世の認識の世界においては、その段階も様々なのではあるが、
私は、肉体を持ち合わせながら、一度死んでしまった。
悟る直前、私は人生を走馬灯のように見た。ほんとうに、人は死ぬときに人生が走馬灯のように見える。
肉体が生まれてから、今の今までコマ送りに人生のすべての瞬間を見た後、
すべての自我が死んでしまった。
ほんとうにすべてだった。
そこには
分離のない
宇宙の源のエネルギーだけが
ただ、あった。
それはただ愛(空)だった。
誰も、個人は存在しなかった。
言葉もでない。
動こうとする、動機もない。
愛だった。
それから数ヶ月をかけて、この体を通し、この体が歩んだ人生がどんな風だったかを努めて思い出し、
初めはすべての認識が持てなかったので、ひとつひとつの名称から覚えた。例えばコップをコップと見ることができなかった。家族を、家族として認識することができなかった。
言葉を知らない赤子同然だった。
その体をこの世に存続させたのは、例えるならお釈迦様の話しで言うところの梵天だった。
個人的な意識はなくとも、梵天の、宇宙の叡智が体を生きた。
悟りに至るまで
短い人生で、人間に起こりえるだいたいの苦を体験し(プロフに書ききれない背景があります)
やがて自分を救うのは 自分の心でしかないと気づき
1年〜1年半、起きている間のすべてを心の観察に費やした。
ほんとうに、寝る、食べる、トイレ、風呂、以外のすべての時間を使って、観察していた。
また 同時に、自分が発したことが自分に返ってくるという宇宙の法則を元に
自分ができうる 善行を心がけた。
求めるという執着の心こそ
人間の苦の正体であるから、
求めず、与える、感謝する
を ただただ繰り返し、
更に心の観察を同時に続けていた。
当時を振り返ると、あのストイックなまでの観察と心がけは、修行僧かなにかのようだった。
感謝をしているうちに、人間だけでなく、地球上のありとあらゆるものへの感謝が生まれ、
動物が食べられなくなった。
(今は、更に続く話しがあって、菜食ではない)
当時は、人間のエゴで動物を殺傷するということを、人間が動物より上だと感じているからこそできうる傲慢さだと感じていた。
後になって、菜食であると人によっては悟りやすいエネルギー状態になるであろうことを知る。
私は無宗教であるし、当時はヨーガだとか、そもそも悟り云々という概念があることすら知らなかった。
頼るべきは少しの自己啓発本と、潜在意識についての本、そして何より本気の観察でしかなかった。
しかし、後になっていくつか文献を読んでみると、正に悟りに至るまでの僧侶やヨギ(ヨーガ行者)の過ごし方を、自然と行っていたことになる。
くぅ。プロフィール
幼稚園の頃からおもちゃを取り合って喧嘩をしているクラスの子を見て、順番を決めて交互に使えば二人とも平等に遊べるではないか。等、度々世界に対する冷めた視点を持っており、争う意味が分からなかった。人の思っていることがなんとなく読めてしまうなどがあったが、皆読めるものなのだろうと思っていた。(常時冷めている訳ではなく勿論子どもらしく遊びまわってもいた)
小学校いっぱいまで度々、物事に集中していると身体はそこにあるまま意識が無(消滅という意ではなく、世界の認識が消える感じ)になってしまうことがあり、病院で脳波を測りにいくも異常なし。後になって(大人になって)無我状態に入っていたと分かる。
私立の中学を受験し入学してから様々な挫折といじめを体験し、不登校になる。と同時にこれも後になって分かる事だが、小脳が頭蓋骨に圧迫され運動機能や髄液の循環を妨げてしまう先天性の難病の症状が発症する。これにより寝てばかりの状態になる。この頃の症状としては、笑うと激しい頭痛が起こり、体を動かすと疲れ、怠さがあった。
日本でこの病を認知している医師が少なく、ただの不登校、怠け者だと認識し、家族や周囲の理解が行き届かない事から通常の生活ができないことを自他共に責め、不眠や自殺未遂を経験する。
19歳の時に父の経営していた会社が倒産、両親離婚。
21歳で病状が進行し、身体に激痛が表れ生活上の少しの動作も出来ず一時車椅子に。そこでいくつかの病院で検査して回り、ようやくある大学病院にて先天性の難病だと発覚する。が、手術の技術を持つ医師がいなかったため何の処置も無く退院、痛みと絶望と向き合う日々。
その後母がwebでこの病を知らないかと呼びかけたところ東京に専門医が見つかり紹介を受け、手術が成功する。
その後約2年のリハビリ生活を経て、歩く事や出かける事ができるようになった頃、闘病中を支えてくれていた方との別れがある。
人生は苦しいばかりでやっと楽になっても次の苦がやってくる。
一体何の為に生きるのかと自分の心を見つめるうちに内観をするようになり、2008年1月悟り、覚醒、目覚めと言われる体験をする。
その後社会に出てアルバイトをするも、内的観察の過程と並行して様々な能力が開花していたため宇宙全体が透視できたりテレパシーが聞こえたり(聞こえた内容を人に確認すると、そう思っていたと返ってくる)等があり、仕事に支障が出たので能力を閉じるよう願う。(現在はテレパシーと透視については当時の半分程度の能力におさまり、またそれらをコントロールできるように)
その後結婚、ヒーリング浄化とディクシャを誰に習うでもなくできるようになる。
ツイッターでその事をつぶやいていたところ、数名から受けてみたいとのお声を頂き2012年スカイプセッションを始める。(2016年8月現在はスカイプセッションではなく対面セッションが主)
セッションはカウンセリングとヒーリング、浄化、そして目覚め(悟り)を促すディクシャで構成。沢山の方が目覚め、気づきに至る。
その後くぅ自身様々な多次元シフトを繰り返し、上記のエネルギーワークに加え、DNA、肉体細胞、生まれて持った魂の設定の調整等、日々エネルギーワークの内容が進化している。
2014年辺りから、度々テレポーテーションしかけたり、物質や体の大きさがその場で変わるようになる。体の大きさがその場で変わることについては、数名が目の当たりにしている。これは、精神と肉体を構成しているエネルギーの振動数が微細になり物理的な縛りを超えてしまうことによる。
テレポーテーションについては、何度か繰り返し熟達してくると望む場所に行けるそうだが、最初はどこに飛んでしまうか分からないため、今のところテレポーテーションしそうになると、ボディの感覚を強化してその場にとどまっている。
※2016年10月5日追記-同日テレポーテーションを体験。
〜メッセージ〜
私は、このボディを通して体験できる小宇宙に、限界はないと思っている。
長きにわたり、地球の体験とは人々にとって苦に傾いていたが、この地球上で調和や楽に傾いた体験が、人類に可能だと思っている。
精神的にのみ悟れば、すべての事象現象は認識の幻だから、そこで一旦は解放が起きる。だが、物理的な不自由さ、人間関係というのは、生活上の意識に戻れば少なからず発生するものだ。
そして、そこをも超えて行ける観察と智慧がある。
私は、精神的な探求の過程で所謂目覚めや、悟りはあるが、そこで決して終わりではないと伝えている。精神と物理世界での過ごし方のバランスが必要だと伝えている。
地球を体験する皆様の御心が、平安でありますように。
2016年8月 くぅ。