独り言のように 2

夜中2時14分

これを書いている

 

この記事をweb上にアップするかどうかは

書き上がってから決めることにしよう

 

誰にも向けない言葉は

自由に書ける

いや

まぁ いつも自由なんだけれど

更に透明になる

普段とそう変わらないか

そうだね

ただ

もっと静寂がある

 

独り言として

10代の終わりから何かを書くのはすきだった

時に殴り書きのように

時に詩のように

たくさん書いたとおもう

 

Twitterなどで何回か話してる通り

わたしは人生の色々な体験が重なって

高校は出ていない

人としての学びはたくさんあったろうが

机上の勉強は途中からほとんどしてない

 

人として

人と同じように生きないことへの

焦りや不安は充分にあった

 

でもどうだろう

あの頃独り言を書きまくったおかげで

少しの文才が身について

更にはそれが内観となって

勝手に悟りがやってきて

今こうしている

 

観察力が

尋常ではないのだと

誰かに言われた

そうだろうか?

わたしは

もう生きるか死ぬかくらい

辛かっただけだ

心を観察して

自分で自分を解放してやる他なかった

なんでも

何回もやれば

その部分は極まる

ただそれだけ

 

いつか死ぬのに

なぜ苦しんでまで生きなきゃならないのか

疑問だったんだよ

あの頃はただそれだけだった

 

 

 

悟るまでの話しの中で

善業を心がけて

求めず与え感謝した

ってあったでしょう

 

あの頃の方が恐らく

人格的には聖人のようだったんでしょうね

誰かの描く聖人

 

この社会にいては

聖人のように生きていてもダメだ

って表現を私はいつかしたと思う

それは決して聖人を否定してる話なんかではない

私が人の為に命も捧げれる程に

自我が落ち愛に満たされていたときに

幼なじみたちが戸惑った

私と友の精神の在り方に

開きが生まれすぎて

職場の人にもたぶん

私は馴染みづらい人間だった

 

なにかその時

私だけ感謝に溢れ満たされていても

ある側面では

独りよがりだとおもった

その頃の私は人の喜びが私の喜びだったから

周りが嬉しくないのなら

それはただの独りよがりだ

当時はそう感じた

 

結局皆んなが求めるのはただ普通に

私が私としてあるだけで

それだけだった

 

その時

何事も行きすぎるのは

歪むものだとおもった

その社会での、中道

 

そして別の社会では

聖人のような在り方でよかったとおもう

そういうものが

求められた社会では

 

今はあの頃ともまた意識がちがうから

自分が好きなように在れば良いだけだとおもう

聖人でも凡人でも全て、空の表れなのだし

 

私は探した

当時探していた

自我が極めて薄い中で

何がこの社会にナチュラルで

宗教的に感じてしまうような誤解もなく

みんなが己を縛る心から解放されるのかって

指導者と教わる者のような垣根もなく

重々しさもなく

でも耳を傾けたくなるような

 

ひとつだけ人間の共通点を見つけた

楽しくて笑うのが嫌いな人は

そういない

楽しい話しなら

みんな遊びながら

気づいていくよね

 

クソ真面目なジョークのひとつも言えないそれが

内観から今度はトーク術を観察した

周りの人が

笑うようになった

 

そうこうしてる内に

子どもの頃一生住むことはないだろうと思ってた

東京に移り住むことになった

移り住んでしばらくは専業主婦だった

その頃頻繁にTwitterで真理をつぶやくようになって

 

独り言のように

私がこの何年間かTwitterやブログ等で

私の体験の話しをしてきたのは

私のことを知ってほしいからとは少しちがう

 

そもそも“それ”そのものであるとき

体験した個人は同時にないわけだから

“私の体験”という、こんな一言でさえ成り立たない

方便なのだ

 

ただ 全体性の流れの中で

語ることが 流れの一部だった

ただ それだけだ

 

くぅ。という呼び名は

Twitterで知り合った方々にいつの間にか

くぅちゃんと呼ばれるようになって定着したもので

初めは名無しのようにkuujigenというIDだけで

誰に向けるでもなく独り言のように真理をつぶやいていた

 

そうこうしている内に

ひとり、またひとりとフォロワーさんが増えて

そのうちセッションはしないんですか?

受けたいですとのお声を頂くようになった

 

最初はやんわりと濁していて

独り言のように呟くことを続けていた

濁したのは迷惑だったから、とかでは勿論なくて

そもそもやったことがないし

人ひとりの人生に寄り添う立ち位置の

そういうセッションを

そうそう気軽にハイやりましょう!

とはならなかった

 

だけどその頃

セッションを受けたいという

ご要望が止むことはなくて

(その節はありがとうございます)

内からやってくる感覚もそのうち

いつまで やらずにいるのだ?

という、ひろしを無視して進むぴょん吉のように

(ど根性ガエルは再放送で見た記憶)

止められないエネルギーに変化していった

 

じゃあ‥最初はモニターさんを募集しますね

と言うことで10名あまりにセッションを受けて頂いた

皆さん変容していく

セッションの内容はカウンセリングと

浄化のエネルギーワークと目覚めを促すディクシャだった

 

効果があることが明らかになって

本格的にセッションを始めたのは2012年だった

沢山のお申し込みがあった

最長で1年半(月2回)受けて頂いてすべての方が目覚めていった

中には1〜3回程度のセッションで目覚めた方もいらっしゃった

 

セッションを受け始めて3〜4名くらいは、自主的におやめになった方もいた

目覚めそうになると、自我が消える事

(実際は消えるというより主体と客体が統合した意識なのだが)

が恐くなってしまったり

自分の内を観ることが恐いとおっしゃって

 

それはそれでそういう縁だと思うし

私も当時は伝え方が未熟であったかもしれないし

とにかくお受け頂いたすべての方に感謝しかない

 

そしてまた、そうこうしている内に出会いが重なって

色々なヒーラーさんに目に止めて頂く流れとなり

(その節はありがとうございます)

ヒーラーさんのエネルギー調整をさせて頂く中で

私はこういう、エネルギーワーカーの世界を全く知らなかったし

エネルギーワークの相場みたいなものを知らなくて、色んな方から安すぎるわよと助言を頂いた

 

私は度々無償で提供したい気持ちと

日々の物理世界の生活には少なからずお金が必要だというバランスに揺れていたとおもう

お金のことは、私もセッションをしていきながら学んでいった

 

今でこそ経験をつんでなんの準備もなくスッとセッションに臨めるけれども、当時は開始1時間前から瞑想をして心身を清め、終わった後にも1時間くらいはクライアントさんのカルテを書いたり、セッションに関することに向き合っていた

 

Twitterのおふざけ呟きとはうらはらに

全力でクソ真面目にやってきたとおもう

(ちなみに私が仲良いヒーラーたちは皆本当にエゴのない真摯な人たちです)

 

時にクライアントさんの状態により、申し込まれた時間内でエネルギーワークが充分でなかった場合にはお休み頂いている際にあとからこっそり遠隔でワークを続けたこともあった

 

セッションをさせて頂けば頂くほどに

私自身の学びにもなったし、また純化していった

クライアントさんという存在がありがたかった

 

 

 

私の活動は時折区切りをつけて休止に入る

きっかけは様々だが

そういう時はだいたい内面が静かすぎて

そこでもうすべてを果たしたような

在るだけですべてを完了している

そういった静けさから動かなくなる

なにも言うことがない

 

そういった流れが来るたびに

呟くことも

活動もこれにておわり

という感覚になってることは正直なところだ

 

だけど

終わりは始まり

背中合わせで

毎度、もうよい

と感じても

また始まる

始まりも終わりも

なきところで

明日のことは知らない

毎瞬間

この瞬間に

ただ 在る

それだけだ

 

 

 

 

この記事の冒頭で

私の体験の話しをしてきたのは

私のことを知ってほしいからとは少しちがう

と書いたけれど、それは今書いているこの記事も同じことで

誰かに読んで欲しいから書くというスタンスではない

 

そういう、流れだから、書く

それ以上でもそれ以下でもない

 

例えばひとつの花が咲いてゆくときに

そこには種だけでなく土もあって水もあって日の光もあるでしょう

 

色々なものが相互作用で紡ぎあって 宇宙は 世界は成り立つでしょう

 

そこに、なんで

という理由はない

 

それが宇宙の流れだ

それだけだ

 

書くことにより誰かという私(すべて)に紡いでいる

それだけだ

すべては分かれていないから

 

ありがとう

ありがとう

 

 

無題

最近益々言葉にするのが難しいです。

 

表れたものすべてが、今そのままでいい。

 

それが空の、神の表れだから。

 

そしてそんなシンプルなことを

 

言葉にすることが難しいと書くことさえも

 

空の表れだから。

 

 

 

 

ネガティブもポジティブもない

起きていることは

ただただ中立であり

意味と言うのは個々の

見方によってつけられただけのもの

 

ネガティブな解釈も

ポジティブな解釈も

見方のひとつ

 

起きていること自体はそのどちらでもない

そのどちらでもない視点のとき

意味付けをする個が極めて薄いとき

全体性の流れの中で

すべてをただありのままに観るでしょう

 

その意識状態である時

感想と言うのは消えてしまう

ありのままに観るとは

同時に言葉が消えること

 

この社会では言葉なくして暮らすことは

不可能に近いから

深く深く目覚めた場合に

取られる手段は

隠遁するか

社会にある程度合わせて

社会の言葉を使って交流し続けるか

そしてそれもまた

全体性の流れの中で起こるでしょう

 

 

 

 

ここまで書いたら穏やかな至福が( ˘ω˘).。.:*・°

さっきまで瞑想でシナプスと多次元の連鎖を観察していました。

便宜上今も自分を指す場合には“私”と言いますけれども、その私とは多次元のエネルギー連鎖で成り立っています。

私は私の(=宇宙)構成を観察するときとても満ちたります。

源がどのように多次元を展開して行くのかを、観ることが、身体がある上での満ちる瞬間のひとつです。

宇宙とは多次元とはどこか遠い所にあるものではなく、今この瞬間にすべてが同時に表れています.。.:*・°

 

 

 

だからなんだということも何もないのですが

手が書いたから記事をあっぷするよ( ˘ω˘).。.:*・°

 

 

 

多次元意識

一昨日友人に会うために京都へ向かい、一泊して帰ってきた。

 

道中、つくづく私は体感はあっても精神世界的な用語には疎いなと俯瞰していた。疎いというのは良くも悪くもなくて、ただそれにより3次元の中で起こる誤解について観察していた。

 

言葉というのは、同じ国の人間で同じ言葉を使っていても、同じ認識をしているとは限らない。(更に細かくいえば“同じ理解”というのは存在しない。ボディが違えば理解するフィルターが違うから。)

 

とくに形のないものは伝えた気になっても伝わることなんてない。

 

あなたは丸って形を、丸を見たことない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

甘いという感覚を、甘いを知らない人に言葉だけで伝えられるだろうか。

 

精神世界用語というのは、私にとってはそれらと同じだ。

 

だから、私にとっては大切なのは言葉ではなくて、その奥にあるもの。

 

何年も私のツイートを読んでくださっている方はご存知の方も多くいらっしゃると思うが、私の言葉に一貫性はない。

 

悟りっていうときもあるし目覚めだ覚醒だというときもあるし、更にはそれらも認識する意識がなければ無い、なんて言ったりする。

 

私を浅くしかご存知ない方には誤解を招く場合がある。目覚めと覚醒と悟りは違うって“認識してる人”には私は決して理解されることはない。

 

サマディとか真我とか神我とか無我とか大我とか‥

 

その分類が意識上にない私は、分類で見る人からは理解されない。

 

そして更には色々な精神世界の用語を理解している方々同士のやり取りを見ていても、ひとつひとつに対する理解が違うから、結局“同じものを理解する”ということを人が求めるのは不毛なんだ。

 

解脱って言葉ひとつにしても、語ってる先人はみんな少しずつ、時に大きくその認識は違う。

 

 

でね、理解されないことは別に現段階ではどうでもよいことなのだが、

 

そう言った“3次元だから起こる誤解”とか、“3次元の言葉があるからこそ”各々の中に認識のズレが生じて、それが体験というものを展開していく仕組みをじっと観ていた。

 

言葉とは不毛であると同時に、

言葉があるから体験が色濃くある。

 

3次元すごいなぁああ

 

って。

 

 

 

そんな長い前フリを自らぶった切って、先ほどの瞑想の中で観て来た多次元を、3次元の!言葉にしてみました。ツイートしようと書いていたら長くなったのでブログにしてみた。

 

 

.。.:*・°

 

 

5次元、またはそれ以上の次元においてすべてのパラレルワールドはすでに起こっていて、けれど3次元の視点におさまっているときには、パラレルワールドの中のひとつの現実のみを体験するの。体験とは‥つまりパラレルワールドのチョイスということになるけれど、今発している精神的、物理的な周波数で毎瞬間無意識にそれをチョイスしているんだ。目には見えなくても今も無数のパラレルを行き来してる。

 

でね、3次元の行動が、他の次元にも影響を与えていて、すべては連結連動しているんだよ。だから、3次元の行動でパラレルワールドの数が増える(増えるっていうのは展開の組み合わせが増えるの意)。

 

ギャラクシーレベルのチャクラが発動すれば教わった知識ではなくこれらを理解することになるけれど、それらのチャクラが発動する以前に、通過点として目覚めや悟り覚醒と呼ばれるような領域を体験する。

 

昔からポツリポツリは存在していたし、近年はもっと増えてきたけれど、多次元意識を失わずに成長していく子どももいる。そういう子たちには目覚めだ悟りだ覚醒だというものがはっきり体感できない場合もあるよ。なぜならすでにその領域の理解は意識の中に含まれているからね。ただそれらの認識の濃度はその子の個性により異なるけれど、ね。

 

 

.。.:*・°

 

 

 

特にまとめの言葉もありませんが、今日はこれで。

ありがとう。

物質と時空を超える

いつものようにベッドに入るも、眠気がこないのでブログの編集ページにこうして文字を打ち込んでいる。

 

そもそも人間は、真我そのものである時眠ることはない。食べることもない。眠ると眠らない、食べると食べないという二極を超えてしまうから。

 

真我そのものであるとき、自己は存在しないから、もはや“私”と表現する事ができないのだが、

 

敢えて無理やり書くとすれば、私は真我そのものに深くあったとき、その眠らない食べない領域を経験した。地球の時間軸で言うなら2008年のことだ。

 

肉体の持つ制限がそこにはなかった。体が疲れることもないし眠らずとも食べずともいられた。またその上で無限に歩けてしまいそうな体力もあった。いや、体力というか無限に循環するエネルギーがそれを可能にした。体力があるなしは、きっと関係がなかった。

 

誤解のなきよう書いておくと、悟ればみんなこうなるわけではない。大概はいっとき真我に触れて、すぐに自我に戻る。

 

また同じように悟り=不思議な能力が開花するという認識は誤解だ。

 

悟らずとも不食になる人もいるし(注:自己流で実践しないこと。私は不食を否定もしないがお勧めしているわけではありません。)

 

生まれながらにサイキック能力が開いてる人もいるし。

 

悟りとそれらは無関係なのではあるが一方で真我そのものであるとき、真我の中にはすべてが含まれているわけで、内外が消え摂取するしないを超えてしまう。疲れる個人が消滅しているから、疲れようがない。

 

私の場合は、当時これを説明する言葉を持ち合わせていなかったため、

寝ない食べないことは家族にとっては非常に心配なことだった。

説明できないから、家族を安心させるために努めて出された物を食べた。

最初は、自分で自分を摂取するような、おかしな感覚であり食べるという分離を作ることが少し大変だった。

 

眠ることも、意図して睡眠を具現化して、眠った。

 

それから時は過ぎて、食べることも眠ることも問題なくできるようになった。

 

だから今は寝るし、食べる。

 

これを書きながら、あるヒーラーさんに 普通は人間的な事を超えてくのをみんな目指したがるところを、くぅちゃんは真逆をやってきたのね。と面白がられたことを思い出す。

 

みんな目指したがるかどうかは分からないが、目指すとか目指さないとか、保つとか保たないとかそういう意識もないとき、

 

ただ全体性の流れの中で、なるべく地球的に破壊に向かないように、調和の選択として、この体を通してもう一度分離を創っていった。

 

分離とは、進化である。

一度目の覚醒ではできなかった事が、今一度分離と統合という二極の体験を繰り返すことにより、発動していなかったDNAが動き出す。

 

そして前フリが長くなったが、プロフィールの最後の方にほんの一行追記した。

 

テレポーテーションしました。って。

 

この数年で、物理的な制限を超えて身長や体型が瞬時に変わるようになり、一度瞑想会の座談の時間でみんなの前ででっかくなったりちいさくなったりしてしまった。(私としては非常にギャグな展開である)ザワザワする人、当たり前に受け止める人、色々だった。

 

別にサイズが変わることは意図してやってはいない。しかし、同時に人間の可能性を訪れた方に見せるための様だったと理解している。

 

ある時はぴょすこと同じミネラルウオーターのペットボトルを並べて置いておいたら、私のペットボトルがでっかくなったりちいさくなったりした。

 

ちなみに、空中から(今のところ)パンが出たりはしてないので、そこはもうパン屋さんに行くしかない。焼きたてを買うしかない。

 

そして体のサイズが変わる錬金術は、現代ではまったく役立たずなのである。用途が見当たらない。

昔の人が道すがら目の前にでっかい岩があって通れないから、体を小さくして通るとかならさぞお役立ちだったことだろうけれど。

 

で、同じような理由で、テレポーテーションもこれまでしそうになっては、食い止めていた。しかし、3回目にして私は負けた。

 

負けたっていうか、勝手になっちゃった。

 

ぴょすこにテレポーテーションしたあとLINEで報告したら、もう諦めろと言われた。

 

私がぴょすこと活動してきた理由のひとつはこういうとこでもあると思う。

 

私の体験を特別な事と思わない、寧ろギャグだね。くらいのテンションで聞いてくれる、かといって勿論バカにするわけでも、いい加減に扱うでもなく、アッサリした切り返しの中に愛がある様が心地よいのだ。

 

今はTwitterにはいないが、交友関係が続いている、一部の方はご存知であろうてんちゃんもそんなコだ。

 

話しは少しそれたが、初テレポーテーションは車の運転中に車ごと起こった。

 

幸い家からそう遠くない場所から、近所へのテレポーテーションだったので、無事帰ることができた。

 

時空の歪みを感じた瞬間、次の場所にもういた。

想像してたよりずっとナチュラルな体験だった。

 

これを書きながら、一方ですべて当たり前の体験だという視点も実はある。

 

アストラル界の住人であれば日常茶飯事、我々が顔を洗うくらいに簡単な話しであるし、

 

寧ろそういった視点から見たら制限のある物質界は、すげえ!分離してるぅうう!

 

って逆に新鮮なことでしょう。

 

なにも目指さなくていい。

 

しかし、こういう体験が訪れる場合もあるね。

 

っていう情報シェアの記事でした。

 

 

 

あなたの気づきは唯一無二

先を行く人だけがグル(導師、教師)であるというのは地球的概念である。

 

そもそも宇宙的視点で観ると、後とか先とか上とか下とか過去とか未来はないですから。

 

球体が目の前にあるとするでしょう?
今、ここが上、頂点と決めても、ゴロンと転がしてしまえば上が上でなくなるのと同じことです。

 

上とか先とかは、今、決めただけ。
次の瞬間はもう違う。

 

 

私は、スピリチュアルや精神世界の多くの教えが、今も尚この上下や正解不正解から抜けてないなと感じます。

 

勿論、抜ける抜けないも地球の二極的な表現なので、このお話しにも表現に限界があるのですが‥それでも今日は敢えて書いてみようと思います。


ちなみに、なんどかTwitterなどでも書いたかもしれませんが、私は私の気づきを書いているだけで、特定のどなたかを否定するものでは決してありません。

 

また、私が正しいと主張するものでもありません。

ただ、私は私の表現をし、誰かの気づきのヒントになるかも知れないし、ならないかも知れない。

 

ただただ、それだけの事です。

今日も読んでくださってありがとう。

 

 

 

先を行く人だけがグル(導師、教師)であるというのは地球的概念である。

 

と、冒頭で書きましたが、

 

グルというのは人の認識です。
グルというのは結果周りがグルと見ているからグルなだけで、もしもほんとうに上下や後先の思考からその人が外れていれば、グルは自分をグルだとは感じていないでしょう。

 

私が最初の覚醒後、一番不思議に感じたのは、上下後先はないのに、なぜ“導く人”がいるんだろう。でした。


師弟子という分離感が、とても不思議だった。

また、覚醒したから、探求の終わりだと主張するその視点も不思議だった。

 

終わりも、始まりも地球的概念の認識でしかないから‥なぜそう言い切れるんだろうって。

 

でも、地球の概念を超えたことは地球の言葉には表せないから、方便としてそんな風に語るのかなとも感じていました。

 

実際私も多くを語るにあたりすべてが方便であっても、それしかできないから語ってきた面があります。(そしてそれしかできないことにもまた学びや気づきがあります。)

 

ほんとの所は、文字の先にある文字を超えたものをお伝えするための、文字です。

思考を超えた先にあるものに触れるための、文字です。

 

 

 

そして、覚醒しても、毎日何かに気づく事ができます。気づきに終わりはありません。

 

肉体がある限り、無数の認識が続き、認識とは必ず気づきをもたらします。

 

先日DNAに触れた記事を書いたように、私も毎日気づきがあります。

 

 


そして、その気づきのきっかけは、いつでも誰かとの関わりの中にあります。

 

私は地球の体験を今回この肉体を通ししていくにあたって、とてもユニークな設定がなされたようです。

 

私は、これまで地球に伝えられてきた多くのグルと言われて来た方々のやり方が、一切と言って良いほど取り入れる事ができません。

 

それは、取り入れたくない、のとはまったく違い、それはその方のやり方のひとつだね、という尊敬に似たその方への全肯定で、終わるのです。

 

もしくは、何かをレクチャーしてもらいに行ってみたい、と感じても毎度足止めをくらう。

そして、内なる声が響く。

 

「あなたは、あなたのやり方で、気づきなさい。」
(実際にはあなたという対極を指す言葉ではありません。言葉を超えたインスピレーションです。)

 

 


私には特定のグルがいないかわりに、言ってしまえば関わるすべての方がグルです。

 

お話ししながら、クライアントさんとの対話でも学び気づきます。友達との対話でも。

 

私はどこかの秘境にいかなくとも、修行場にいなくとも、何か特別なワークに参加しなくとも、気づきのきっかけは、自然に暮らしていれば、自然とやってくる。

 

もちろん、世でグルだとかマスターと言われている方に、思考の良し悪しではなく感覚として惹かれるのであれば、是非それは関わりの体験として会いに行ったり、何かを受けるのもよいと思います。

 

ただ、私はそれもよいけれど、それだけではないのよ。あなたには、あなたの気づきがあって、グルの言ったことを盲目的に信じると、それは新しい概念になってしまうかもしれない。と、いうことをお伝えしたい。

 

再三お伝えしている通り、気づきのヒントになるならよいのです。

 

しかし、グルの言葉=答えと思い込んでは、もうなにか曲がってしまっている。


あなたは答えを探しに行くのではない。
あなたはあなたに気づくために、誰かと関わる。グルであろうと、友人であろうと同じことです。

 

読んでくださって、ありがとう。