努力して
なにかを成してゆくのと

好きなことしてたら
自然になにかが成されてゆくのと

 

何かが成される
何かができるっていう
結果は同じだからね

 

どちらでも好きな道を
選んだらいいよ
ここはそういう星だ

 

すべてが自由だ

 

でも
努力したら偉いとか
努力したら認められるとか

努力しないと
愛されないっていう思いが
根底に隠れてたら
何やっても
何を成しても
結局不足感はつきまとうからね

 

何をしても
しなくても
自分を愛する事ができたなら


努力しないと愛されない
っていう思い込みが消えて
自然と努力とかそこに付きまとう我慢とか
そんなものも消えていって

 

残るのは
ただ純粋に存在として在るってことを
喜んだり
くつろいだりするようになると思う

 

存在にくつろぐようになると
自分に好きなことを選ぶ自由を
与えられるようになる

 

好きなことをしてたら
自然に何かが成されてゆく

 

どんな道でもいいよ


どんな道でもいいけれど
自分を許して愛せる者は
誰かをも許し愛せるようになる

 

なんでもいいよ
どんなあなたでもいい

 

心の投影が世界だ
あなたがあなたに優しいとき
世界は優しい

宇宙

宇宙の次元が開くっていうのは、様々な関わりの中で起こるエネルギーのやり取りが重要だね。だからと言っていつもいつも誰かと居る必要もないけれど。

 

たった独りになってみて、そこに生まれる様々な思考感情感覚を観察するのもそこでしか観れないなにかがあるし、だからと言って何年も何年も独りで居てもそこから開く宇宙に限界はあるだろうし。

 

何事においても呼吸のようなものだよ。片方だけではバランスが悪い。吸いっぱなしの人間も吐きっぱなしの人間もいないでしょう。人間の在り方そのものが、宇宙が、そういう事なんだよね。

 

誰かと関わって気づく事もある。独りになって気づく事もある。人間同士の関わりを呼吸に例えたけれど、暮らしのすべてがそうだよね。

 

眠りすぎても眠らなすぎても、食べ過ぎても食べなさすぎても、身体的にバランスが悪いでしょう。身体的な過ごし方のバランスが悪ければ精神のバランスにも関わるし。

 

(これを読んでバランスに気をつけよう、と気をつけすぎたらそれもバランスが悪い(笑)気をつけすぎることは緊張だから。)

 

ありとあらゆる事がそういったバランスに在る。(その二極を超えて不眠不食を表現する宇宙(人)もあるけれど、今度はその宇宙においてのバランスを知ることになるだろうね。)

 

全ての中間を常に保とうとしながら二極を体験する事により、宇宙っていうのは拡張するんだ。宇宙っていうのは内なる宇宙、外なる宇宙、内外のない空であるそれ、全てを差すよ。

 

人間は人間にとっての良き形を保ちたがる意向にあるけど、二極を揺れては中間(空)に戻るという揺らぎが自然な形なんだよね。

 

ひとつの状態を保とうとしなくていいわけ。
ひとつの何かに固着することが緊張であり、心も身体も固めてゆくよ。まぁ、固めてみる体験すら、二極の揺らぎなのだけど。

 

そうして、二極を揺れては中間(空)に戻るという揺らぎの全容を“良し”とする様(受け入れる様)を、時に精神世界の言葉上では“宇宙に委ねる”って表現になる。

 

だから、宇宙に委ねてれば“普遍の良き状態(人間にとっての都合の良い状態)に到達して、それを更には保てるなんて思い込みがあるなら、その思いはリセットしてもいいだろうね。

 

地球の全てを見渡してみると、片時も同じものはないよ。例え同じように見えたとしたら、それは宇宙の揺らぎ、変化が非常にゆっくりなだけだ。

 

 

宇宙は呼吸だ。
そんな表現を以前にもしたと思う。


でもそこからまた100周くらい回って、今また宇宙は呼吸のようなものだって表現をしてる。

 

人間て面白いよ。何回も何回も沢山のことに気づいて、気づきを拡張するからね。

 

でもそれこそ宇宙の表現だよ。

 

はじめに宇宙が宇宙に気づいた時から、そうして拡張を続けてるんだ。

幸せとは

私は約5年半セッションとか瞑想会とか

時折お話し会とか開かせて頂いて来たわけだけれど

この活動を通して沢山の人に出会ったよ

敢えて言葉を選ばずに言えば

(言葉に囚われるなという意を込めて)

 

金持ちもそうでない人も

職がある人もない人も

トップクラスの学歴を持った人も

そうでない人も

芸能人のような容姿の人も

ごく平凡な人も

運動好きも運動嫌いも

ある分野での世界的に有名な人も

友人のいる人もいない人も

恋人のいる人もいない人も

家族のいる人もいない人も

健康な人もそうでない人も

色んな人に出会ったよ

 

こうして並べるとさ

幸せって物理的な条件じゃないってことに

気づかない?

 

もっと金があれば

もっと地位があれば

もっと美しければ

もっと友人がいれば

もっと

もっと

 

何かを得れば自分は幸せになるはずってさ

みんな思って生きて来たんだよね

 

でも

追い求めて

時に達成して

時に失敗して

色んな気持ちを味わってさ

 

失敗したら自分や誰かを責めてみたり

達成したらしたでそれを維持しようとしたり

またはもっともっとと達成しようとしたり

どっちにしたっていつも心が揺れて

 

楽もあれば苦もあって

振り返れば大体が苦のような気もして

人生で何回かもうしんじゃいたいとか思ってさ

 

そうやって精神世界に目を向けはじめてさ

今こうしてこのブログを読んでくれてるんだよね

 

 

幸せってさ心の投影でしかないよ

どう見てるかでしかないよ

更にはその心の動きが止んで

静寂だけしかないその時にさ

ああ 現実っていうのは

世界っていうのは

全部認識して意味を付けた時にだけ在るんだなって

最初からずぅっとそうだったんだなって

思い出すとも

知るとも

言い表しがたい“それ”だけど

知るよ

 

でさ

そうして色々な事に囚われなくなったら

自由に選ぶ安心があるよ

失う恐れや執着して生じる苦に

飲まれない状態を知ればさ

何を選んでも大丈夫だなぁ

って知るよ

仮に暮らしを送る内に

また飲まれることがあっても

そこから離れる方法を知っていれば

また離れられる

 

地球上の多くの聖者や覚者がね

悟ったあとも何度も心が揺れては

心や身体を観察して

更に更に深く悟って行ったんだ

 

それくらい

世界はリアルだ

でも

観察しだいで

過ごし方しだいで

心の動きに翻弄される事は

どんどん減るよ

心の動きに翻弄されないとき

そこに普遍の静寂と安堵があるよ

 

空と表現の色と無常

空の領域以外では、いかなる人間でも全てを語る事はできません。ですから所謂覚者と言えども、覚者と覚者の伝える表現が完全に一致することはありません。どんなに深く覚醒しようとそれは同じことです。なぜなら言葉にした時点で個性の色が着くからです。時には同じ話が真逆の言葉で表現される場合もあります。

 

だからもし、あの人はこう言ったがこの人はこう言っている、どっちが本当だろう?と思う事があれば、そのどっちが本当か?を探すのをやめる事です。しいて言うなら、すべてが良いけれどもなにが“その時の自身”にフィットするか?それだけです。

 

そしてそのフィットさえ、変化するかも知れないししないかも知れない。この世の全ては移ろいゆくもの、変化するもの、無常であるから。

 

この世に肉体を持ち物心をついてから、人間は正しい事探しに意識が固定されて来ました。常に正解や良き状態を達成、または維持するという幻想に縛られて来ました。

 

そう言った幻想から解放されてゆくときのヒントに覚者の言葉を見聞きするのは手助けになると思います。しかしそこでまた正解不正解探しにはまってしまわないよう、ご自身を観察されてください。

 

人は心も行動も状態も本来流動的なものです。自然界の動植物のように、季節のように、天気のように、本来は流動的です。正しさも間違いも流動的です。見方が変われば事実は変化する。変化するとは、固定されたものは何も実在していないと言うこととイコールです。

選べるのか選べないのか

体験を選べるのか、選べないのか。 

 

スピリュチュアル界でよく言われる話だけどね。

 

5次元から見れば3次元として体験できるパラレルを選べるよ。で、5次元の選択と3次元の選択は連鎖してるから、どっちが先かなんてないよね。同時に起こるから。

 

そして5次元で何を選ぶかは、5次元を俯瞰している意識、またはデータの連鎖によっても決まるだろうから、“3次元の自分”ていう意識が選べたか選べなかったかを考察するのはナンセンスなんだ。

 

だから“3次元の自分”が選びたい事を選べばいいよ。難しい事考えずにね。

過去世という概念とパラドックス

私はこれまで、時に過去世を語る場面があったが、それは地球のスピリュチュアルで多く語られる過去世と言う感覚とは違う。

 

なぜなら私の中には過去と未来がないからだ。
過去がないなら過去世と言う言葉は方便になる。

 

そして同時にこう言い表すこともできる。“個人が存在しない”なら“誰それの”過去世も存在しない。
だから地球上で言う過去世という言い回しは方便だ。

 

地球で言われている過去世というのはただその瞬間に表れている、または連鎖しているエネルギーデータの事だから。私もあなたも“言葉ある時に”存在していると、“見る事ができる”。誰かの体感や経験があると、“見る事ができる”。

 

しかし存在していると見る事ができるこの次元、この世と言われているそれが実在すると信じる視点の割合の方が多い時、その集合的な視点にある程度の同調をする時に物理的に表れた身体と呼ばれるそれは存続しやすい可能性に満ちるから、実在しないものは実在していると仮定されたそこに合わせるのだ。

 

合わせない選択も勿論ある。合わせる合わせないの選択をする個人はそこに存在しないけれど。合わせない選択がなされた場合には、そこに言葉はない。語るものが居ないからだ。

 

この合わせるという行為は実はスピリュチュアルな表現にさえも縛られる。なぜなら人の思考は共通した言葉でしか理解できないからだ。

 

人間は言葉を合わせたがる。同じ言葉でないと違うものだと認識するからだ。そして違うものを時に裁こうとする。

 

言葉があるから、正しさを求めてしまうが、言葉がなければ正しいも間違いも存在しない。

 

言葉を合わせたがる意識によって、結局言葉を越える事がないから、スピリュチュアルな教えでさえ歪んで伝わるのだ。言葉の奥を拾うものだけが、それを知るだろう。しかし知るその時に知る個人は存在しない。

 

そんなパラドックスに混乱しなくなったとき意識は混乱しなくなる。実在しないがしているとされる次元を混乱しなくなる。

 

混乱こそ苦だ。

 

混乱しなければ苦は無いも同じだ。

しかしその視点である時には同時に苦とする視点さえ良しとしている。

 

混乱がないっていうのはそういう事だから。

 

 

 

もっと言ってしまえば過去世だ概念ださえも、全部良いんだよ。言葉遊びがこの表れている次元の表現ならば、理解できるできないさえ良いんだよ。

 

ここまで書くとまた語る事がなくなっちゃうけれどね。

 

すべてが無いと同時に

 

表れてる全てを良しとするとき

 

そこに苦は存在できないよ。

 

幻影

わたしは
わたしは
何者でもない

 

あなたは
あなたは
何者でもない

 

すべては
認識
すべては
解釈

 

解釈に
解釈を重ねて
何かを判断し


時に
あれは良い
あれは悪い
あれは正しい
あれは間違い

 

無常の視点を
頭や
胸や
腹に
巡らす

 

その視点は
すべて
わたしではない

 

その視点は
すべて
あなたではない