過去世という概念とパラドックス
私はこれまで、時に過去世を語る場面があったが、それは地球のスピリュチュアルで多く語られる過去世と言う感覚とは違う。
なぜなら私の中には過去と未来がないからだ。
過去がないなら過去世と言う言葉は方便になる。
そして同時にこう言い表すこともできる。“個人が存在しない”なら“誰それの”過去世も存在しない。
だから地球上で言う過去世という言い回しは方便だ。
地球で言われている過去世というのはただその瞬間に表れている、または連鎖しているエネルギーデータの事だから。私もあなたも“言葉ある時に”存在していると、“見る事ができる”。誰かの体感や経験があると、“見る事ができる”。
しかし存在していると見る事ができるこの次元、この世と言われているそれが実在すると信じる視点の割合の方が多い時、その集合的な視点にある程度の同調をする時に物理的に表れた身体と呼ばれるそれは存続しやすい可能性に満ちるから、実在しないものは実在していると仮定されたそこに合わせるのだ。
合わせない選択も勿論ある。合わせる合わせないの選択をする個人はそこに存在しないけれど。合わせない選択がなされた場合には、そこに言葉はない。語るものが居ないからだ。
この合わせるという行為は実はスピリュチュアルな表現にさえも縛られる。なぜなら人の思考は共通した言葉でしか理解できないからだ。
人間は言葉を合わせたがる。同じ言葉でないと違うものだと認識するからだ。そして違うものを時に裁こうとする。
言葉があるから、正しさを求めてしまうが、言葉がなければ正しいも間違いも存在しない。
言葉を合わせたがる意識によって、結局言葉を越える事がないから、スピリュチュアルな教えでさえ歪んで伝わるのだ。言葉の奥を拾うものだけが、それを知るだろう。しかし知るその時に知る個人は存在しない。
そんなパラドックスに混乱しなくなったとき意識は混乱しなくなる。実在しないがしているとされる次元を混乱しなくなる。
混乱こそ苦だ。
混乱しなければ苦は無いも同じだ。
しかしその視点である時には同時に苦とする視点さえ良しとしている。
混乱がないっていうのはそういう事だから。
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もっと言ってしまえば過去世だ概念ださえも、全部良いんだよ。言葉遊びがこの表れている次元の表現ならば、理解できるできないさえ良いんだよ。
ここまで書くとまた語る事がなくなっちゃうけれどね。
すべてが無いと同時に
表れてる全てを良しとするとき
そこに苦は存在できないよ。