体験と循環

私とは何か。いつから私なのか。そんなことを十数年前に観察していた。私とは私を私と認識した時に私だと思えるだけだ。では認識しなければ?‥。

 


最初は理屈で紐解いた。理屈からして、私というのは認識でしかなかった。日常を送りながら、理屈で紐解いたそれをずっと考えていた。

 


その内、無思考は勝手にやってきた。無思考になって行く時恐れが湧いた。何かを掴んでいたものが離れて行くような感覚。手にしていた浮き輪が大海原で手から離れて行くような恐れが浮かんだ。しかし、無思考は思考では止められなかった。

 


手放すしかできなかった。そして、ある時友達の思考が入ってくるようになって、なぜ友達の思考が入ってくるのかと観ていたら、友達なのか自分なのか分からなくなって、境界線は徐々に消えていった。その辺りと平行して、色の無い世界を見たり、見たもの全てになる体感があった。

 


ドアを見ればドアになってしまう。床を見れば床になってしまう。どうしようというような感覚が湧きながら、この物質世界ではこの体に視点を留めなければと、意図して、意識が全てにならないようにした。

 


ある時決定的に、自我の全てが死んだ。私、は居なくなった。背骨に沿って絶え間なく至福のエネルギーが巡っていた。その状態のまま約半年が過ぎ、残った物質体を物質の次元で生かすべく、最低限の自我を構築していった。

 


そしてまた数年が過ぎ、その時点では、この意味のない事が繰り返されるだけの次元が嫌になっていた。意味がないのに、意味を捉えて反応をしなければならないそれに、真剣になることもできず、幻想だと分かっているゆえに心から楽しむこともさほどなかった。

 


ただ意味もなく居るだけなら、居ないのも同じ。別にいつ物質世界から離れてもいいなと、そう思う日が続いた。が、ある時そんな事を感じながらぼんやり床に目を落としていたら、やってきてしまったのだ。

 

次の段階の覚醒が。

 

床の端にちょこんとあったホコリをみて、私は泣いた。ホコリを創ることができたことに感動したのだ。その視点で周りの全てを見渡すと、それらの全てに、創ることができた、という感覚と感動がわいた。

 

宇宙の源のエネルギー、創造主(私なき私)から、世界が生まれた時の、なぜ生まれたかをそこで悟った。意味はないけれど、体験できる全ては愛となった。執着がろくにないのは変わらなかったけれど、執着なくただ今を体験する。それが全てだった。それは喜びであった。

 

意味などなくていいのだ。ここに在ることが全てだ。それは同時に今現れている全てへの全肯定だ。その視点で見ると、どんな観念があっても、それもいい。

 

だけど、そこで止まると、こういう話をシェアする気も実は起きない。全部変える必要がないからだ。一方で変わって行く全てもそのままそれでいい。

 

世界に参加するということは、何かしらのアクションや言葉を表現することだ。だからただ私は悟り、覚醒という話を書いているだけで、誰かを救いたいとか役目だとか、そういったことすら、源に溶けてしまった。それが宇宙の流れだから、とも言えるし、ただ現れているだけと、時折口にするのは上記の全てを含んでの事だ。

 

あなたが、あなたで在りたい形に現れたらいい。

 

そこにはこれまでの体験を選び続ける自由だってあるし、苦楽という二極の揺れを終わりにして行く為に内的観察を深めてもいい。物質的な世界での行為も、環境も、仕事も、関係性も、選びたいことを選べばいい。

 

そうして、物質体が在るだけ在って、宇宙の流れにそってその形を変える日も、やがて終わる日も、全てがそれでいいよ。

 

あなたはずっと愛だ。

好きなように、在るといい。

 

だけどひとつだけ書いておこうかな。あなたがあなたを許し愛するほどに、あなたは自然と誰かに優しくなる。特別なことをしようとしなくても、誰かに優しくなる。居るだけでいい。居るだけで必要なことはするようになる。宇宙っていうのは、地球っていうのはそういう循環がある。

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog