物質と精神のバランス

あなたが今衣食住が充分に整っているなら、苦しみとは思考感情から来ている。お腹が空いているのに食べるものがない、とか、寒いのに着る物がない、とか、暴力に耐える日々を送っている、とか、そういうことは、まず物理的な側面から状態を変える必要がある。

 

この社会にいながら精神探求に目を向けると、人によっては行動と精神観察のバランスが微妙になってしまう場合がある。例えば暴力を受けているのに、この事象はどこから来ているのか、と観察だけでなんとかしようとしたり、スピリチュアル界で言われるようなアファメーションを駆使して状況を変えたりしようとする事はそれにあたる。建物に例えるなら目の前で火事が起こっているのに、なぜ火がついたかを観察しているようなものだ。火は、とりあえず消せよ。ということなのである。

 

物理的な対処をし状況を整えてから、その事象の全容を見て何を感じたのかを観察するのが精神探求だし、それが逆であると単に地に足のつかない人間になるだけだ。

 

それからこの社会に生きる以上、スペシャリストになる必要はないが、ある程度のコミュニケーション能力はあった方が良い。それは明るく、どんな人とでも関わろう!というようなそんな話ではない。別に1人で居るのが好きなら、そういう選択は勿論アリだ。

 

ここで言うコミュニケーション能力とは、シンプルに言えば人と関わった時に最低限ここが抑えられていれば、コミュニケーションは円滑ですよ、というお話。単に人の話を聞いていないだとか、相手が分かるように伝えられてなかっただけのことを、精神観察(内観)だけでどうにかしようとしても、同じような事象が繰り返されたり、苦しみが繰り返される。

 

ジャッジメントなく相手が何を言わんとしているのか耳を傾けてみること、また、自分が何を考え感じているのか、明確に伝えてみること。

 

 これらの行動、コミュニケーション、精神観察、そのバランスに着目してみるといい。

 

また精神と物質体(肉体) は一続きのものであるので、物質体が不健康になるような食事をし続けて、精神だけ観察してもそれもまたバランスとしては欠けている。体は食事や習慣で作られるし、体の状態はダイレクトに精神に影響している。

 

食事に気をつけなきゃ!と思いすぎるのは単に心身の緊張になるし、食事に対する良し悪しのジャッジメントは新たな観念を生み出す場合があるから、そういう視点ではなくて、できる限り体に優しくあろうと心がけて食事を選んでみることが大切かと思う。

 

添加物の入ったものを食べるなと言っても、この社会にいると他にやること、考えることが沢山あったりして、食事を選ぶことがままならない時もある。勿論添加物等をとらない方が体の為には良いけれど、絶対ダメとして自他を見張っていると、それはただ精神的に新しい苦しみを生むに過ぎない。

 

また、誰かにとって合う食事が万人に合うとは限らないことも覚えていてほしい。この世に“絶対的に良いこと”も、“絶対的に悪いこと”も、いかなる側面において存在しないことを知った上で、“今の自分に合うもの”をその都度選択したらいいと思う。

 

選択として、満ちる感じがするなら、食について色々こだわってみる選択もいいと思う。

 

その都度の選択の自由を自他に与えながら、 行動、コミュニケーション、精神観察、そのバランスに着目してみるといい。 

 

精神探求、観察は戒める事ではないよ。自分を構成しているその人間という小宇宙を、ただ純粋に知る作業だ。

 

どうあっても、どの瞬間にも優劣はないよ。

ただ、知ること。ただ、感じ尽くしていくこと。

 

 

くぅ。(@kuujigen) - Twilog

 (表示するツイートをReplyを除く設定でご覧いただくと見やすいです。)

 ※個人セッション・瞑想会・WS等のお知らせはtwitterにてご覧ください。