サマディー、悟りの段階。あるがままに。

なんの想念も浮かばないので、“何かを伝えたい”もない。

 

この記事も書かなくてもよいかなという感覚であった。

 

静寂の銀世界に、わざわざ足跡をひとつつけにゆくような、そんな動力が必要だ。

 

静かだ。

 

 

先日、インドの某アシュラムに長期滞在中の友人から、LINE電話がかかってきた。アシュラムで受けたアーユルベーダの徹底したデトックスの過程の話、エネルギーの話、インドで言う悟りの話等、色々な話を聞かせてくれて、そして時に意見を求められた。

 

私は、ツイッターのプロフィール的文章にはヨーガ用語や仏教用語なるものを添えてはいるがヨーガにも仏教にも詳しいわけではない。ブログの最初の方の記事でも書いた通り、ほぼ独学で内観や食事、行動言動を変えて行くことを徹底的にやっていたら、求めてもいないのに深い悟りがやって来てしまって、それを説明するための知識をつぎはぎのように集めて来たタイプなので、今でも知識としてデータがない部分もきっといくつもある。

 

一方で体験では一通り知っているので、専門的な用語がどういった状態を指すのか話してもらえれば、何を言われても ああ あのことか。とはなる。

 

知識は時に必要だと思う。だけど、最初に学ばなかったからなんの先入観もなかったのは確かで、知識がないから悟りに対する執着がゼロだったし、先入観も執着もないままに、当時やっていた事は本格修行者並みの暮らしぶりだった、というところで恐らく“悟りを妨げることができなかった”。

 

求める心を徹底的にしらみ潰しに滅して、与えるに徹していたら、その経過はまぁ苦しいものではあるが、あれだけやったら誰でも悟るわ。とは思う。今思うと多角的に自我が生まれる余地を与えなかったのだから、そりゃ悟る。

 

(悟りに至る道はいくつもあるので、この方法でしか悟らないということではありません。)

 

時折簡単に悟った人だと、特別な人なんだろうと勘違いして頂くことがあるけれども、そんなことは全くない。

 

ちなみに、言葉は乱暴かも知れないけれど、深まるとこまで深まったなら、悟りとか正直どうでもいい。悟る悟らないの差がないから。ふつうに、いつか肉体の寿命がやってくるまで、ここに居る。過ごす。体験する。それだけなのである。

 

人間はただそれだけに対して、何か意味を探したり、善し悪しの判断をつけたり、恐れを持ったりするから、時に苦を感じることになって(私は意味づけや恐れ苦もまた否定する事ではないと観る。そのように現れているだけだと観る。)、それらの心の動きから解放されようとまた相対性のないそれ、仏教で言ったら空、ヨーガで言ったらサマディーに、すべての本質に気づこうとする働きが起こる。

 

インドに滞在中の友人が電話越しに言う。

日本で(近年)言う悟りとさ、インドで言う悟りって、なんか違うのよ。日本て、ちょっと悟っただけでも悟りって言うけど、インドだとちゃんと悟りの段階があって、そんなちょっと悟ったくらいのものは悟りとしないのね、と話ながら、彼の目指すニルビカルパサマディーという段階の悟りについて話を続けた。

 

で、その会話をしたのも忘れて数日経っていたのですが、ふと思い立ちサマディーの段階について先ほどちょっと検索したのですね。

 

サビカルパ・サマディー……瞑想者の意識は神の中に融合し、その肉体は硬直して呼吸も心臓もほとんど停止した状態になるが、瞑想者は仮死状態の肉体を完全に意識している。

 

ニルビカルパ・サマディー……瞑想者がさらに高い境地に達すると、普通の顕在意識を保ったままで神との霊交を持続して、絶えざる至福を味わうことができる。最高の境地に達した大師(マスター、解脱成就者、如来)だけが経験できる状態。

 

私の2008年の悟り、サマディーは、ニルビカルパ・サマディーまじりのサビカルパ・サマディーだ。仮死状態と至福が同時にあったが、顕在意識は構築するまでなかった。

 

(悟りの瞬間、私という個人意識はないので、私の悟りという表現は方便でしかない。)

 

(1番最初に開いたお話会では悟った瞬間見るものすべて私だった、と表現したが、あれはほんとうに言いたかった所ではなかった。実際には私と感じるものも消滅していたから。それでもなぜあの段階を話したかと言えば、それを説明するにはもう一本二本ブログを書く必要がありそうだ。)

 

サビカルパ・サマディーから、もう一度相対性の認識世界を構築して、暮らしに戻って行ったのだが、当時は何が起こったのか把握していなかったので、手探りで構築したために、構築しなくてもいい部分もあったと今は思う。無駄な体験は何一つないから、あれはあれでいいけれど。構築してはまた紐解いて、ちょうどいい所を知る過程で、サマディーの段階、悟りは更に深まり、何の意味ももたない全てがなぜ現れたのかを理解した。

 

私は恐らく今ニルビカルパ・サマディーを3分の2も入った所くらいだと感じる。至福についてはまだらなので。そして至福とか段階とかどうでもいいのだけど、今回書くのが必然なので書いている。

 

そしてニルビカルパ・サマディーについては理解するし、分かるのだが、また一方で、このサマディーは肉体が物質の次元に残っているサマディー、悟りなので、私がこれまた入り口に入りかけている虹の体(ゴールドドラゴンボディ/女性の場合はゴールドフェニックスというようですね)は、インドの文献ではなんと表現するのだろうと少しだけよぎりました。が、それもまた気にはしていないです。気にしようとしまいと、必要なら知ることになるから。

 

虹の体は物質体が精妙な次元に移行して、または素粒子分解が起きて、物理的な次元からは見えなくなるのですが、そのまま物理的な次元に戻らない選択と、今一度物理的な次元に戻る選択があると思います。私が度々口にしている虹の体は後者なのですが、正直こちらも、何がどうあってもよいと感じているのが私の現状です。虹の体もなってもならなくてもいい。投げやりな意味では決してなく、何がどうでもそれでいいのです。なんていうか、毎瞬間をそれで良しとしているので、こういう感覚に落ち着くのですね。

 

結びの言葉が何も浮かびませんが、タイピングする手が止んだので、主要なことは書き終えました。

 

今日も長々と読んでくださってありがとうございます。