今朝の気づき

「苦しみというのは、本能なんだよなぁ‥。」と、いう観察と共に目を覚ます朝。私はこの個体で目を覚ます毎朝、それは気づきと共に始まる。寝ても覚めてもそこには瞑想状態があり、ずっと何かに気づきながら日々を暮らしている状態だ。常にふたつ以上の認識を持ってその瞬間を、見ている。ひとつは事象への認識、ひとつはこの個体(肉体)に生じる視点やその感覚への認識、ひとつは相手という相対的な個体のエネルギー情報、そしてそれらを成り立たせている多次元の仕組みを“同時に見ている”。もちろん、その場を体験するには情報量が多すぎる場合には、どこかの領域が遮断されている場合もある。一個人としての単純な反応を示す時もある。どういう状態が良いとか悪いとかはない。

 

体験というのは、視点の拡がりと狭まりの行き来だと思う。伝達であり、認識だ。“私”という感覚は全体にも、個体にもあって、どこで見るか、どこで感じるか、が“その瞬間の体験”となる。私という感覚に同じ瞬間なんて無い。微細に見たらそういうこと。

 

周囲に存在するエネルギーリーディングをする方が時折私(という個体)を見ると、宇宙が見えると口にする事がある。そう言われた瞬間「そうなんだよ」と、多次元的に認識し、思い、そう答える。私は個人であり全体で、そこに宇宙としての表現があるのみで、ただそれだけだ。でも何故今も尚体験しているかといえば、この個体とそれぞれの個体から見える視点を拡げていくことが宇宙の始まりでる私がしたかったことだから。私は私を知る、それだけのために沢山の個体、沢山の視点を生じた。しかし同時にそれに対する執着はない。

 

話は少しそれたけれど「苦しみというのは、本能なんだよなぁ‥。」という今朝の視点の話。そもそも人間が苦を嫌がるのは、生存本能なんだ。嫌がるという反応がもし無ければ、その個体や種は簡単に滅びてしまう。暑すぎる事、寒すぎる事、を無意識レベルで嫌と感じ避けようとするし、そういう反応が派生して、大切にされない時、認められない時、苦という反応が生じて来る。

 

で、私(という個体)の場合、約10年前の最初の覚醒時にこの本能をも超越してしまったが為に、物質的にその肉体を生き残ろうとする反応すら生じなかった。そこにはもう個人としての生死という感覚がないからだ。仮にこの個体がひとつ滅びたところで、私という全体性は消える訳ではなく、その時の私というのは個体の反応を超えたただ“それ”だった。

 

が、しばらくして生じたのは、その個体がこのタイミングで滅びた場合、どのような連鎖がエネルギー的に波紋として拡がるのかを見たが為に、ある領域まではこの個体を保つことにした。個体を保つには、生死の無い領域から、“物質的に滅びないように気をつける”という意図が必要だった。最初その意図は難しかった。生死が無いのに、滅び、つまり物質としての死を避ける、という矛盾を生じさせなければならないからだ。無いものを有るとさせるとき、結構なエネルギーがいる。宇宙にねじれを生じさせるという事は、エネルギーがいる。このようにして、生き残る本能を再び私は構築した。

 

“生き残る本能”を使って、第二の人生の始まりを体験しているうちに、生き残る本能を使っていることをすっかり忘れていた。私は今朝右側のナーディーの詰まりを見ていた。ナーディーの詰まりを見ていると、そういうものが見えてきた。

 

生死の無きところから“ただ在る”を、もうひとつ違う領域で今なら表現できる感じがしているんだろうな。物質というかっちりとした感覚からホログラムとしての感覚により重きを置いた方に。“生死は無く(この次元に)現れている”という感覚に。

 

移行してきてるからと言って、それがすぐさま変化する訳じゃない。使ってきた感覚というのは、一進一退しながら移行するんだよ。それはあらゆる領域において働くバランスだ。