内的観察

内的観察とは、地道なものです。地道だけれど、それは確かに苦からの解放の道のひとつだと思います。その過程で観察する視点が全体に溶け去り、そこに真我が現れる。

 

真我が現れたら、そこでゴールなのではなく、本質からこの物質世界を体験して行く始まりです。それまではいつかどこかで取り入れた観念によって選択と体験が繰り返されます。観念というのは時代や環境、関わる人間関係等において移ろいゆくものですから、観念を主軸にしていては人の心はずっと移ろいゆくものに翻弄されてしまいます。

 

こうでなければならない、これは良くてあれは駄目、そういった考え全てが観念です。また、得たい、失いたくない、という執着によっても人の心は揺さぶられます。

 

良い悪いというジャッジメント、得る失うという認識から派生した執着、それらが無ければ無いほどに、人の心は平穏だと言えます。

 

なぜ良いと思ったのか、なぜ悪いと思ったのか、なぜ得たいと思ったのか、なぜ失いたくないと思ったのか、心の動きを観察して行くこと。そこに様々な気づきがあるでしょう。

 

いつもセーブしてしまう心の動きもまた、いつかどこかの体験から覚えた反応パターンです。本当は〇〇と言いたかったのに、逆の事を言ってしまった、言いたいことが言えず、黙って飲み込む癖がついて本音を無視してきた、等。

 

そう言ったことに対してもなぜそうして来たのか?と観察して行かれると気づきがあると思います。

 

上手く観察できる日もできない日もあるでしょう。できるのが良くて、できないのは悪い、というのもまたジャッジメントです。ジャッジメントは新たな緊張を生んでしまいます。結果にとらわれず、ただ観て行くことが大切です。

 

観察して行かれると、何重にも蓋をして来た感情が噴出して来ます。感情はただエネルギーであり、どんな感情にも良い悪いはありません。ただ、出てくるのを許してあげてください。感じ尽くしてあげてください。感じている最中は時に、その感情に飲み込まれてしまうような感覚になるかも知れませんが、先にお伝えした通り感情はただのエネルギーです。感じ尽くしてあげると、文字通り尽きる時が来ます。

 

これらの繰り返しにより、徐々に観念が薄れて行くのです。

 

 

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今朝の気づき

「苦しみというのは、本能なんだよなぁ‥。」と、いう観察と共に目を覚ます朝。私はこの個体で目を覚ます毎朝、それは気づきと共に始まる。寝ても覚めてもそこには瞑想状態があり、ずっと何かに気づきながら日々を暮らしている状態だ。常にふたつ以上の認識を持ってその瞬間を、見ている。ひとつは事象への認識、ひとつはこの個体(肉体)に生じる視点やその感覚への認識、ひとつは相手という相対的な個体のエネルギー情報、そしてそれらを成り立たせている多次元の仕組みを“同時に見ている”。もちろん、その場を体験するには情報量が多すぎる場合には、どこかの領域が遮断されている場合もある。一個人としての単純な反応を示す時もある。どういう状態が良いとか悪いとかはない。

 

体験というのは、視点の拡がりと狭まりの行き来だと思う。伝達であり、認識だ。“私”という感覚は全体にも、個体にもあって、どこで見るか、どこで感じるか、が“その瞬間の体験”となる。私という感覚に同じ瞬間なんて無い。微細に見たらそういうこと。

 

周囲に存在するエネルギーリーディングをする方が時折私(という個体)を見ると、宇宙が見えると口にする事がある。そう言われた瞬間「そうなんだよ」と、多次元的に認識し、思い、そう答える。私は個人であり全体で、そこに宇宙としての表現があるのみで、ただそれだけだ。でも何故今も尚体験しているかといえば、この個体とそれぞれの個体から見える視点を拡げていくことが宇宙の始まりでる私がしたかったことだから。私は私を知る、それだけのために沢山の個体、沢山の視点を生じた。しかし同時にそれに対する執着はない。

 

話は少しそれたけれど「苦しみというのは、本能なんだよなぁ‥。」という今朝の視点の話。そもそも人間が苦を嫌がるのは、生存本能なんだ。嫌がるという反応がもし無ければ、その個体や種は簡単に滅びてしまう。暑すぎる事、寒すぎる事、を無意識レベルで嫌と感じ避けようとするし、そういう反応が派生して、大切にされない時、認められない時、苦という反応が生じて来る。

 

で、私(という個体)の場合、約10年前の最初の覚醒時にこの本能をも超越してしまったが為に、物質的にその肉体を生き残ろうとする反応すら生じなかった。そこにはもう個人としての生死という感覚がないからだ。仮にこの個体がひとつ滅びたところで、私という全体性は消える訳ではなく、その時の私というのは個体の反応を超えたただ“それ”だった。

 

が、しばらくして生じたのは、その個体がこのタイミングで滅びた場合、どのような連鎖がエネルギー的に波紋として拡がるのかを見たが為に、ある領域まではこの個体を保つことにした。個体を保つには、生死の無い領域から、“物質的に滅びないように気をつける”という意図が必要だった。最初その意図は難しかった。生死が無いのに、滅び、つまり物質としての死を避ける、という矛盾を生じさせなければならないからだ。無いものを有るとさせるとき、結構なエネルギーがいる。宇宙にねじれを生じさせるという事は、エネルギーがいる。このようにして、生き残る本能を再び私は構築した。

 

“生き残る本能”を使って、第二の人生の始まりを体験しているうちに、生き残る本能を使っていることをすっかり忘れていた。私は今朝右側のナーディーの詰まりを見ていた。ナーディーの詰まりを見ていると、そういうものが見えてきた。

 

生死の無きところから“ただ在る”を、もうひとつ違う領域で今なら表現できる感じがしているんだろうな。物質というかっちりとした感覚からホログラムとしての感覚により重きを置いた方に。“生死は無く(この次元に)現れている”という感覚に。

 

移行してきてるからと言って、それがすぐさま変化する訳じゃない。使ってきた感覚というのは、一進一退しながら移行するんだよ。それはあらゆる領域において働くバランスだ。

 

2019年、諸々。

 2019年、明けました。

今年も皆さまそれぞれの体験宇宙が、心身ともに満ち足りたものでありますよう。

 

近況。読む方によっては今更かもしれませんし、また読む方によってはそんな方法があるんですねと言う認識になるかもしれませんが、一昨年か昨年あたりから度々音声入力でメモなどに文字を書くようになりました。

 

音声入力でブログを書くのは今回が初めてですがなかなか便利なものだなと思います。言葉で話すようなスピードで文字が起こされると言う様子を見て、それだけ文明が変化しているのだなぁと思います。

 

紙の上となると手書きのほうが温かみがあったりするかもしれませんし、読みやすさスピードと言ったらこういった技術の発達を使ってみるのも面白いですね。ちなみに私はiPhoneからこれを書いています。

 

 

唐突ですが、私は意識の探求過程で集中的にチャネリングでメッセージをおろしていた時期があります。その時にいくつかの真理の断片をチャネリング先から教わってきた部分もあるにはあるのですが、真我覚醒したときに一瞬でふに落ちたのは、メッセージを送っていた意識存在すら“大なる私”の一部であり、チャネリングと言うのは相対的な認識があるときにだけ成り立つものだと理解しました。

 

“私と言う個人的意識”とメッセージを“送る側の意識がある”、と言う“相対的な認識”の中にだけそれは起こり、その相対が統合され、ひとつの意識である時、メッセージを“送る受け取る”と言う状態が幻想だとふに落ちるのです。

 

 今の私と言うのは以前で言うチャネリングが日常の言葉、私の言葉、自動手記メッセージが、私の言葉となっています。だから思考しなくても話ができるのです。やってくる言葉が私の言葉です。細かいことを言うと、やって来る来ないもなくぱっと生じます。そこに距離は無いのです。

 

また“私”と書きますが、それは便宜上のことで個人的な私を指していると同時に個人的な私は居ないとも言えます。

 

そしてこのように書くと人によってはですが、その様を高次元意識に意識が統合して神そのものになった、と意味付けされることがあるかもしれませんが、私の中には高次元低次元、またどちらが良い悪いと言う認識はありません。

 

また体ある限り意識の拡張に(気づきに)終わりはないと思います。体ある限り一生学ぶと言えます。そして現段階でどのような現れであってもそこに優劣はありません。また善も悪もありません。

 

覚醒したから覚醒していない人より優れているわけでもありません。そもそも覚醒するしないと言うことが認識なのです。既に今皆さんは覚醒しています。それそのものなのです。それを遮断しているのが、自我による、観念による、概念による、認識なのです。

 

そして自我と言うのは劣ったものではありません。この物質世界を体験するには必要なツールでしたし、覚醒後も個体による認識を自我と呼ぶ事もできるでしょう。

 

自我+どのような認識解釈かが、その時そのように現れている私、その人、と言うことができると思います。

 

ですから意識の探求過程で自我、観念、概念による解釈があるから私は劣っているあの人は劣っていると言う、そういった二次的な解釈にはまらないよう気をつけていただきたいと思います。

 

すべての状態はただそう在るだけです。現れが違うだけです。その現れをチョイスできるのが人間なのです。自然界の動物もまたとても素晴らしいものですが、認識を意図的にチョイスすると言う選択を与えられたのは人間と言う個体ならではでしょう。

 

人間にはたくさんの可能性がありますが、人間の複雑性ゆえに1つの認識にはまったままなかなか抜け出られないと言うことが、生じることもあるかと思います。 

 

そんな時にこのブログがヒントになることがあれば幸いです。

 

長くなりましたが、最後に今朝浮かんだメッセージを書かせて頂き終わりにしたいと思います。

 

 

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表現の違いがあるのは当たり前である

 


同じ言葉遣いであってもどのような認識ニュアンスでそれを語ったかは人それぞれである

 


認識やニュアンスが異なるのはそれまでの人生で培ってきた体験が全く異なるから

 


言葉の背景が全く違うのに言葉尻だけをとって正しい間違いと騒ぎ立てるのが多くの人間だ

 


まず言葉の背景にある前提が異なるだろうことを理解した上で話をするべきだ

 


それだけで大概の争い事はなくなる

 


誰が正しい誰が間違いと言うそういう物差しで最初から見なくなるから

 


人間は自分が正しいまたは間違っていると言う幻想の中に生きている

 


正しい間違いと言うのはその時々でいともたやすく変化してしまう無常のものと理解すると良い

 


 


人は時に自分が理解をされないと嘆くが

それでは自分はどれだけ相手を理解しているだろう

 


例えどんなに仲良くて何年付き合っていようと

相手に対する知らないことなど出てくるものなのに

 


ぱっと知り合ってそんなに時も経ってない相手からたやすく理解されることなどあるだろうか

 

 

 

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理由などない

理由とは思考の紐づけだ

思考が止む時にだけ真我は現れる

真我に理由はない

ないのだ

 

自我からは生と死があるように見えて

生を良しとし

死を避けようとする

しかしどちらも生じていない

生も死も幻想だ

 

身体というのも視点でしかない

どこからどこまでが身体なのか

身体と思う時

身体が在る

 

世界とは認識だよ

認識した時に見る事ができる

 

真我には虚しさもない

幻想に対する虚しさもない

 

真我と幻想は同時に在る

真我は真我だけでは真我を知ることはないから

しかし真我が真我を知る時真我という言葉もない

そこには何も生じていない

 

安心して意味をつけるといい

そこに何の意味もないから

安心して幻想を体験するといい

それは幻想でしかないから

 

 

 

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真我

私は誰でもないということ。

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個人的な“これが私”と感じている意識は、一つの葉がこれが私、と思っているようなものです。気づきによって視点が拡張してゆけば、私とは葉であり木全体であり、土であり水であり空気であり太陽だと気づくでしょう。境目なんてなかった。境目をつくったのは視点でしかなかった。

 

個人的視点、その意識が全体に溶け去ったら、ただ真我が現れる。

 

 

 

 

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ただ在るただ体験する

おはようございます。ブログの更新がしばらくお休みになっていました。ブログもツイッターもメッセージを書かせて頂いている時と言うのは自然と自動的に手が動くのでその流れに任せていましたが、この数ヶ月ブログに宛てるメッセージは浮かばないままでした。

 

真我から観ますと全てが今、それで良いし、変化させなければいけないものは何もなく、今でない状態を求めるのはマインドでしかありません。反対に言えば常に今を良しと受け入れることができたなら、人間が苦しむことはありません。

 

(それは物質的にどんなに酷な状態にあっても受け入れなさいということではありません。人間は本能的に暑過ぎれば冷ましたがるし、寒過ぎれば暖めようとします。環境や食事等についても同じことが言えます。物質体を粗末に扱って良い、という話ではありません。※本能の領域を超越する方法もありますが、エソテリックな話になるので割愛します。)

 

今であってはいけない、こうしなきゃいけない、そんな個人的な思想が発達した結果、思想、意見の食い違いが生じ、人と人は争うことに成功しました。個人の、オリジナルの“〜ねばならない”という思い込みの範囲におさまらなければ、それは間違ったこと、悪いこと、劣ることと判断しました。それは他者だけでなく、自分をも自分が設けたそれらにおさまらなければ裁き続けてきました。

 

 

それが全てマインドによる幻想だとしたら?

他者と自分という認識さえもマインドによる幻想だとしたら?

 

自他が認識の中で別れた時に、“それぞれの視点”が生じます。“それぞれの視点”なのだから、それらは同じであるはずはありません。視点の数だけ見えかたがあります。人間はその見えかたのどれが正しく、どれが間違いなのかを常に考えてきました。永遠に答えが出ないものを、出そうとしてきました。

 

どれも正しくなくどれも間違っていません。“ただそう在るだけ”、です。ただそう在るだけと、意味をつけることなく観ることができたなら、そこに苦しみは生じません。

 

 

幻想から目覚めたら、目の前に生じている幻想世界を俯瞰しながら体験しはじめます。自他という感覚の有無を同時に体験します。マインドの介入なしに喋り、行動をします。必要であればマインドを使うことも可能です。意味づけなく観ている時も、体験を楽しむための敢えての喜怒哀楽も、良しとしています。

 

幻想から目覚めたあと尚も生じている幻想世界に対し、意味が無いからとやる気が失せるようであれば、それもまたそういった認識、マインドだと気づく瞬間がやってくると思います。

 

真我からなぜ幻想世界が生じたのかふに落ちれば、幻想世界に対するやる気があるもないもなくなります。

 

ただ在る。ただ体験する。

 

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貨幣制度と純粋な望み

精神的な探求をされていらっしゃる方に貨幣制度がしっくりこない人は多いです。貨幣を用いずとも人間は生きていけることを知識的、感覚的に知っている人々は、どんなに内観しても受け入れがたい、という状態になったりする。しかし、何千年と愛や精神性について語られて来ても、貨幣制度がなくならないのはなぜか。

 

そこを観察していくと、貨幣制度を否定していても仕方のないことが見えて来ます。“否定するものは有り続ける”宇宙の仕組みに気づいてください。否定ではなく受け入れた先で、貨幣制度に対する精神的な縛りを越えますし、貨幣が有っても無くても精神には大差がないという所から貨幣を活かした時、見えて来るものがある。

 

好きな仕事をしてください。仕事をしたくないなら、したくない気持ちを受け入れてください。ご自身に向き合ってください。どんな現実なら心身が楽か書き出してください。そしてそれは現実化すると決めてください。

 

余談ですが仕事をしたくない、一生遊びたい、という人も、いざその現実が来た時に、しばらくすると今度は何かをしたくなったりします。人間は遊びもやりつくすと暇になってきて、何か新しい循環を起こしたくなります。自分だけ満ちていてもつまらない事に気づいた時、仕事をしたくなったりする。面白いでしょう?でも本当にある話しの一つです。

 

なんにせよ、まずあなたを知る事です。あなたの見る世界が、あなたの世界なのです。あなたの救い主はあなたです。

 

私はこの世は認識による幻想だ。ということをベースにお伝えしてきました。それはブレません。しかし、幻想は幻想だけれど、同じ幻想なら尚もある心身の感覚が、充足する幻想体験の方が好ましいと思うでしょう?

 

それは自我の欲以前に物質世界の仕組みからそう感じる、という事ができます。動植物を見ても分かるように、それらの進化は自我の働きを越えています。生き残ること、発展しようとする事は、自我以前の仕組みです。

 

生死というのは源なる意識、真我、空から見れば認識による幻想ですが、人間の体に認識があるとき、物質世界の自我以前の仕組みに沿う働きがある。生き残りたいし、発展したいのです。それは仕組みです。

 

(仮に私は真我覚醒したから生き残りたいも発展したいもないわ、とお思いになる方も、微細な領域ではその仕組み上にあるからこそ、今体が物質として在ります。)

 

ですからあなたは遠慮なくあなたを満たして良いです。それは欲を越えた働きですから、満たして差し上げて良いことです。

 

私は自我からくる欲を満たせと言っているのではありません。なぜなら自我からの欲は欠乏から欲しがっているだけだからです。欠乏を埋めるために何かを得ても、根底の欠乏は残っていますから、また同じ欠乏感がやってきます。欠乏をいつから感じているのか、その始まりをしっかり見、いかなるご自身も受け入れたところから、尚も残る望みを叶えてあげてください。

 

純粋な望みを、叶えてあげてください。

 

 

私は今自我からくる強い欲はありませんが、純粋に湧いてくる喜びにしたがって、“ただ知る”という宇宙原初の望みを叶えています。

 

私はこの個体から見える世界を楽しみます。美しいエネルギーの山や河がとても好きだし、オシャレなカフェで過ごすのも好きです。満ち足りたエネルギーや空間等を感じるのが好きなのです。

 

人によってはそれが音楽かも知れないし、絵を描くことかも知れないし、科学的なことかも知れないし、ただ家族と一緒に過ごすことかも知れないし、料理をすること、走ること、時に何もしないこと、かも知れない。

 

私は友達と話すことも好きだけれど、それと同じくらいに、一人きりで居るのが好きです。

 

私は自分が、人が、全てが自然のように常に一定ではない事を受け入れています。

 

そして全てがそれで良いのです。

 


取り留めもなく、言葉がやってくるままに書きました。書き出したときツイッターに投稿するつもりだったのですが、長くなったのでブログにアップすることにします。

 

読んでくださってありがとう。

 

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