ただ在るただ体験する

おはようございます。ブログの更新がしばらくお休みになっていました。ブログもツイッターもメッセージを書かせて頂いている時と言うのは自然と自動的に手が動くのでその流れに任せていましたが、この数ヶ月ブログに宛てるメッセージは浮かばないままでした。

 

真我から観ますと全てが今、それで良いし、変化させなければいけないものは何もなく、今でない状態を求めるのはマインドでしかありません。反対に言えば常に今を良しと受け入れることができたなら、人間が苦しむことはありません。

 

(それは物質的にどんなに酷な状態にあっても受け入れなさいということではありません。人間は本能的に暑過ぎれば冷ましたがるし、寒過ぎれば暖めようとします。環境や食事等についても同じことが言えます。物質体を粗末に扱って良い、という話ではありません。※本能の領域を超越する方法もありますが、エソテリックな話になるので割愛します。)

 

今であってはいけない、こうしなきゃいけない、そんな個人的な思想が発達した結果、思想、意見の食い違いが生じ、人と人は争うことに成功しました。個人の、オリジナルの“〜ねばならない”という思い込みの範囲におさまらなければ、それは間違ったこと、悪いこと、劣ることと判断しました。それは他者だけでなく、自分をも自分が設けたそれらにおさまらなければ裁き続けてきました。

 

 

それが全てマインドによる幻想だとしたら?

他者と自分という認識さえもマインドによる幻想だとしたら?

 

自他が認識の中で別れた時に、“それぞれの視点”が生じます。“それぞれの視点”なのだから、それらは同じであるはずはありません。視点の数だけ見えかたがあります。人間はその見えかたのどれが正しく、どれが間違いなのかを常に考えてきました。永遠に答えが出ないものを、出そうとしてきました。

 

どれも正しくなくどれも間違っていません。“ただそう在るだけ”、です。ただそう在るだけと、意味をつけることなく観ることができたなら、そこに苦しみは生じません。

 

 

幻想から目覚めたら、目の前に生じている幻想世界を俯瞰しながら体験しはじめます。自他という感覚の有無を同時に体験します。マインドの介入なしに喋り、行動をします。必要であればマインドを使うことも可能です。意味づけなく観ている時も、体験を楽しむための敢えての喜怒哀楽も、良しとしています。

 

幻想から目覚めたあと尚も生じている幻想世界に対し、意味が無いからとやる気が失せるようであれば、それもまたそういった認識、マインドだと気づく瞬間がやってくると思います。

 

真我からなぜ幻想世界が生じたのかふに落ちれば、幻想世界に対するやる気があるもないもなくなります。

 

ただ在る。ただ体験する。

 

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